赤色土の泥染

友人のKちゃんが、泥染めをするという。そこで、僕も以前から知っている「赤い土」を持って参加することにした。これは、小屋脇の林道を少し登った所に露出している。この土を見つけた時は驚いた。赤色の濃さが周囲の関東ローム層の土、いわゆる普通の赤土とは全く違うのだ。乾いても赤いままである。素人の考えだが、これは、オーストラリア東部、インド、北アメリカ南東部などにものと同じく、地質時代に地球が温暖だった頃に生成された赤色土の残存物、すなわち「古赤色土」に違いないと思っている。そういえば、この林道の山道を、昔は「赤坂」と呼んでいたと古老から教えてもらった。この赤色土から名付けられたのかもしれない。

すでに、Kちゃんも同じような赤い土を用意していた。聞いたら、僕が採取した場所の近くの土だという。僕と同じ地層の「古赤色土」なのだろう。この土を、篩って小枝やゴミを取り除き、水を加えてドロドロにする。濃いオレンジ色の絵の具を溶いたようである。この中に、布のところどころをくくったり切り抜いた板などを挟んで、色水が染み込まないところを作り模様を描いた。その後、どっぷりとドロドロの色水に着けて、次に水で洗い流す。泥が落ちたら日光に晒す。すると、すっかり布にオレンジ色が染み付いて模様が現れる。

秋晴れの下、子供も大人も、両手を真っ赤にしての泥遊びである。なんだか、原始人かアポリジ二にでもなったような気分である。実に楽しい。この大地の赤い色は、はるか遠くの原始の記憶を呼び覚ます作用があるようだ。

小砂焼(こいさごやき)のコーヒーカップ

朝起きて、コーヒーを飲んでいたら、突然、手にしているカップの「故郷」に行ってみたくなった。栃木県那須郡那珂川町小砂(こいさご)である。馬頭温泉郷の先、街道の両側に小高い山が迫る集落である。ここは、今でこそ栃木県であるが、かつては水戸藩の領内であり、天保元年(1830)に、徳川斉昭によって、この地で良質な陶土が発見され、嘉永4年(1851)に小砂瀬戸に御用窯が築かれた。今日行った『藤田製陶所』の一族は、その頃に自家に窯を築き、現在まで連綿と陶器を作り続けている。

粘土工場と化粧煉瓦の庭

驚くのは、歴史ばかりではない。原料の陶土確保から粘土の精製、成型、焼成、販売までのほとんどを家族だけで行っている。陶土も、近くの山から掘り出している。外部の人が参入できないのは、この石英混じりの陶土を砕いて精製する設備が、藤田家しか無いからだろう。工場を見せてもらった。巨大な花崗岩でできた粉砕石臼や巨大な鉄製ドラムに玉石と陶土を一緒に入れて、ガラガラ回して細かくするボールミルという設備があった。これはアメリカ製で大正時代から使われているそうだ。登り窯は、東北大震災で崩れてしまったが、これらの粘土工場の機械は無事で、現在でも立派に働いているという。薄暗い空間に、厚く土埃が積もった巨大な機械は、実に格好良く、独特な雰囲気を醸し出していた。主人の奥さんは、これらの機械が壊れていたら「やきもの」はやめていたと言っていた。藤田家の宝であり誇りであることがよくわかった。


この小砂焼には華麗な歴史がある。安政3年(1856)に初代の齋藤栄三郎(後の藤田半平)が制作した「四方壺」のうち、松の絵柄はフェノロサの収集品となり現在はボストン美術館に、また梅の絵柄は東京国立博物館に収蔵されている。明治29年には、全国で三番目に「大山田工業補習学校」が設立され、多くの陶工を養成した。大正8年(1919)には「関東化粧煉瓦株式会社」が大坂に次いで設立され、車道用煉瓦を製造する東日本で唯一の会社となった。当時は100人を超える従業員を擁していたという。現在の粘土工場の各種の設備は、煉瓦工場から引き継いだものである。また藤田家の庭一面(写真)に敷き詰められているレンガは当時の製品である。その化粧煉瓦会社も昭和2年(1927)に解散し、跡地は小砂小中学校になった。しかし、その学校も現在では廃校になっている。

奥のタンクのようなのがボールミル

小砂焼のコーヒーカップは、一見、古臭くて無骨である。しかし、石英混じりの陶土を高温で焼成しているからか、いかにも硬くて丈夫そうである。落としても割れそうにない。半磁器と言ってもいいだろう。いわゆる「作家もの」ではない。「土地もの」である。これで、濃くて苦いコーヒーを、ちびりちびり飲んでいると次第に愛着が湧いてくる。美しい山里で、家族が細々と作り続けてきた味がする。

今日買ってきたのは右端の赤いカップ

八郷盆地に戻ってきたら、物凄い雨だった。今夜、新しいカップで飲むのが楽しみだ!

陶土

 

不動坂

どこで石榴石が拾えるのかと聞かれたので、30年も昔の記憶を頼りに真壁の山を歩いた。断片的なわずかな記憶だけだ頼りだ。ありがたいことに地形や森の様子はそう変わっていない。でも、訪れる人はほとんどいないようだ。かつて道だったところは、一面草に覆われている。踏み跡もない。蜘蛛の巣を払いながら進むと、高いところから誰かに見られている気配がした。ふと、頭をあげたら、一枚岩の上の岸壁から、お不動様が見下ろしていた。石作りの立派な社に入っている。誰もお参りに来ている様子はないが、まだ信仰はかすかに生きているようだ。挨拶でもと思い、近づいたら、そのギョロ目の素朴な風貌を見て一挙に緊張が和んだ。

そこで、この山道は、昔、「不動坂」と呼ばれていたのを思い出した。

 

大山桜が倒れた!

一昨日、流山の自宅に帰っている時に、突然、「上青柳の大山桜」が根元から倒れたとの連絡があった。驚いた!今年の春に見事な花を咲かしていたのに信じられない。満開の花の下で、皆んなで楽しく食事をしたのを思い出したら、一層悲しくなった。

八郷に戻って、小屋に行くよりも先に大山桜を見に行った。高さ25m、周囲4mもある大木が、谷の方向に哀れな姿で横たわっていた。この山桜は、僕が八郷に来て以来、約二十年間、毎年見ていた。何度も観察会も開いた。木の下で子供たちと遊んだ。

この桜は、竹やぶに囲まれて育ったせいか樹高が高い。生えている場所も土壌が薄く、岩盤があって深く根を張れなかったのかも知れない。木の大きさの割りには、根張りが貧弱である。また、一見、樹勢は旺盛なように見えたが、腐敗が入っていた。先日の台風には耐えられなかったのだろう。

2023年4月2日 最後の花姿

長い間、美しい桜を咲かせてくれてありがとう。「さようなら!」

 

 

「雪入山脈」のタマゴタケ

定例の 自然観察会で、かすみがうら市と八郷の境界となっている「雪入山脈」を歩いた。行きは国有林の中、帰路は尾根道である。尾根に出たら、遠くの霞ヶ浦を背景にして出島や神立の家並みが眺められる。吹き上がって来る風が涼しくて気持ちいい。

ふと、足元に目を向けたら、真っ赤なキノコが生えている。タマゴタケだ!ここにも、あちらにもと仲間の声がする。あちこちに卵の殻を破って、可愛い赤いキノコが顔を出している。タマゴタケは、一見あまりにも派手な色をしているので、毒キノコだと思われているが、実は美味しいキノコなのだ。早速、採取した。
これを今夜の夕食にしよう。パスタにするか?オムレツか。単にバターで焼くのもいいかもしれない。あれこれメニューが浮かぶ。しかし、ふと一瞬、もしかしてタマゴタケに似ている毒キノコかも?という思いも頭をよぎる(笑)

 

 

旧小松家住宅と「さんべや」

滝台古墳の次に、県指定文化財の「旧小松家住宅」を見学した。ここを訪れる人は一日に2、3人だから、当然見学者は僕一人だ。小松家住宅は、江戸時代中期の庄屋格の建物である。「曲り屋」で、土間が大きく曲がる「土間曲がり」であり、さらに馬屋がもう一つ曲がった「二つの曲がり」を持つ複雑な形をしている。家の中のどこもかも煤けて茶黒い。太い柱、曲がりくねった天井の梁が2百年の歴史を感じさせる。しかし、板張りの廊下や囲炉裏のある居間といい、掃除が行き届いていて黒光りしている。家を保護するために、毎日囲炉裏で火を焚いているそうだ。各部屋を見せてもらったが、その中で驚いたのは「さんべや (産部屋)」である。北側の奥まったところに、床に竹が敷かれた小部屋があった。実物を見るのは初めてだ。何か特別な部屋の感じがして、足を踏み入れるのは憚れた。何でも、元の屋敷を解体したところ床下に土盛りがあり、「さんべや」だと判ったという。

はた織り機

お産をするとは、日常とは異なった特別な行為で、各地に様々な習慣が残っている。僕が知っているのは、いわゆる「産屋(うぶや)」で、母屋と離れたところに仮小屋を建て、そこに女性がこもって出産するというものである。「隔離・別火」を特徴している。それは出産が不浄であり穢れた行為であるからというものから、「忌の」生活により神の加護のもとに子どもを産むという神聖な行為であるなどの様々な解釈がなされている。それが、この住居では同じ屋根の下、生活の隣に設けられている。こんなのは聞いたことも読んだこともない。

これだから、近所の散歩でも何らかの発見があり、面白い。

なんど(さんべや)

 

 

滝台古墳

このところ、あること(いつか明かします)に夢中になっていたので、投稿をサボっていた。

昨日、小美玉市の霞ヶ浦湖岸周辺を歩いた。玉里地区である。玉里には幾つもの古墳があって、その中でも規模の大きい「滝台古墳」を歩いた。6世紀中葉のものだという。この古墳は湖北側の高台に位置しており、周囲は雑木林と畑で囲まれ人家は稀だ。訪れる人はほとんどいない。静かだ。古墳からは木立の間から霞ヶ浦が臨める。一人、木漏れ日を踏みながら遊歩道を進んで行くったら、突然、先方に人影が現れた。おじいさんである。彼は手にゴザと枕を抱えている。挨拶したら、ここは気持ちがいい所なので、毎日昼寝をしているという。手製のハンモックが吊るして合った。僕も使わせてもらって、横になったら実に気持ちがいい。湖からの風が吹き抜ける、横を向くと、湖面の先に志筑の山々、そしてその先に筑波山が見える。彼は、ここにいるとこの世の憂さを忘れると言っていたが、その気持ちが良くわかる。いつでも、このハンモックを使っても良いとの許しをもらったので、これから度々通うことにする。

次は、近くの古民家「旧小松家住宅」に寄った。次の投稿に続く。

 

ピーがいない!・・・

一昨日のこと、朝起きたら、いつも「おはよう!」と近づいてくるピーの姿がない。外に遊びにでも行っているのだろうと、気にもとめなかったが、昼になっても戻って来ない。こんな事は初めてだ。少し心配になったが、僕は用事で外出しなければならない。帰る頃には戻っているだろうと軽く考えていた。しかし、用事が済んで小屋に戻っても、まだ、ピーの姿が無い。置いておいたキャットフードも食べた形跡がない。心配になってきた。だんだんと陽も暮れてきた。森に暗闇が迫ってきた。「ピー、ピー」と喉が痛くなるほど大声で呼んだ。いつもなら、「ボクはここだよ」といいながら、藪の中から現れるのに今日は来ない。

もしかすると、交通事故にでもあって、その辺で死んでいるのではないか?何か毒でも食べて草むらで倒れているのではないか?今頃、一人で苦しんでいるかもしれない。いろいろと不吉なことが頭をよぎった。必死で小屋の周辺の道路や林を探した。黒い塊を見ると、もしかしてピーかと思い、何度も近づいたが、いずれも草むらだったり木の株だったりした。その度にドキリとしてやがて安心した。頭上の杉の梢では、カラスが鳴いている。日頃、こんなにカラスが鳴くことはない。しだいに、ピーのやつ、僕に別れの挨拶もしないで死んでしまったのかと思うようになってきた。あいつが僕のところに来た時は、掌に乗るくらい小さな子猫だった。その愛くるしい姿が思い出された。もう、それから15年間、ずうっと一対一の生活を送ってきた。お互いに何を言っているのかも、少しは分かるようになってきた。この15年間のいろいろな思い出が駆け巡る。寂しい時も嬉しい時も一緒だった。不安なとき、どんなにアイツに慰められたことか。励まされたことか。それが、今日、すべて終わったかもしれないのだ。悲しみが込み上げてきた。

半ば諦めて、明日明るくなったら、もう一度探してみよう。そして必ず亡骸を見つけてやろうと思いながら、ベッドに着こうとした。その時である!ベッドの足と裏ドアの狭い隙間に黒い塊が横たわっているではないか!そっと、触って見たら、フワフワした温かな毛並みに触れた。ピーだ!こんなところにいたのか?でも、グッタリしている。どこか具合が悪いようだ。そっと、抱き上げて布団の上に寝かせたが、また、よろよろとした足取りで、薄暗いベッドの隙間に隠れてしまう。昨夜から何も食べていないようだ。そこで、閉店間際のスーパーまで車を飛ばし、魚のゼリー状のキャットフードを買ってきて、口元に差し出したら少し食べてくれた。これなら大丈夫だ!安心した! どうしたのだろうか?何か病気だったのだろうか。この連日の暑さで日射病になったのだろうか?

幼い頃のピー

今日はすっかり元気になり、以前のように、僕と遊んだり、外で遊びまわっている。ピーに言い聞かせた。「少なくとも、お前はあと五年間は元気で生きるのだぞ!」と。あいつは解っているのか解らないのか、「ピューイ」と鳴いて返事した。

出島、長福寺の椎

かすみがうら市の出島地区は興味あるところだ。霞ヶ浦に突き出た半島のような地形である。霞ヶ浦大橋が出来るまでは、外からの影響の少ない地域だったかもしれない。そのために、ここには古くからの文化や民俗や信仰が残っているように思える。
今日は、その最深部といえる下軽部にある長福寺の椎の巨木を見に行った。この辺の特色であるなだらかな凹凸の地形が広かっている。低地は水田であり、微高地は屋敷林と雑木林。その中に隠れるようにして畑と農家が点在している。無住の長福寺は、その一角にひっそりと佇んでいる。この長福寺はかなりの古刹だったようだ。説明板によると「真言宗豊山派の寺で、かつては十万石の格式を供え、南大門を有し、本堂は間口十八間、奥行き十間、九尺の縁廻し、総けやきの荘厳な寺院だった」が、度々の火災によって、現在昔を偲べるのは宝篋印塔と山門、そして椎の木ばかりになったという。

誰でも、椎を見ようとすると必ず足を止めるだろう。怪異ともいえる椎の姿に恐れをなすに違いない。高さは十数メートルとそれほどでもないが、まっ黒い巨大な幹(胴回り7m)の姿の異様さに驚かされる。長い歴史の怨念や祈念が樹木の形となっているかのようだ。この椎は樹齢七百年とも推定されるが、長福寺の盛衰をじっと見てきたのだろう。出島の出来事をじっと聞いてきたのだろう。

この廃寺同然の長福寺を、一層寂しく不気味にしているのは、小さな祠、石仏、石塔などのいたるところに貼られている何百枚ものお札である。薄暗い、椎の巨木の前の小さなお宮にも、ベッタリと貼られていた。由緒ありげな宝篋印塔にも貼られていた。僕は、このような光景を他では見たことがない。この土地の風習なのだろうか。

突然、一陣の風に吹き抜けて行った。一斉にお札がヒラヒラとたなびいた。椎の葉がざわついた。

 

 

蓮田の中のカフェ

お盆が近いからではないが、以前のブログにも書いたように、僕は蓮(ハス)という植物が好きだ。霞ヶ浦の湖岸道路を走っていて、見渡す限りの蓮田の中に、埋もれるようにして一軒の家があるのを見つけた。壁には、「珈琲」の文字が書いてある。蓮も、コーヒーも、そして一軒家も好きな僕は、このようなカフェに強く惹きつけられる。寄らないわけにはいかない。店に入ったら、客は僕一人だけ。蓮田が臨める一番いい席に座ってコーヒーを飲んだ。

風が、深い緑の大きなハスの葉を揺らす。時々、白い葉裏が見える。もう、花の最盛期は過ぎたのだろうか、咲いているのは幾つも無かった。それを気遣ってくれているのか、店内には朝切り取ってきたピンクと白の花が活けてあった。真っ青な夏空に積乱雲がゆったりと流れている。

風で揺れるハスの群れを眺めているうちに、次第にゆったりとした気分になって、いつの間にか居眠りしてしまった。残念ながら、極楽浄土に行った夢は見なかったが・・・・・。

 

鹿島海軍航空隊跡を訪ねて

前から、この建物が何なのか気になっていた。ツタの絡まった古風な建造物。明るい霞ヶ浦の湖畔にあるのに、どことなく暗い影がある。今回、ここは「鹿島海軍航空隊」の跡地で、ツタの絡まった重厚な建造物は、その本庁舎だったと知った。この鹿島海軍航空隊は、1938年(昭和13年)に水上機の実習訓練施設として発足し、終戦とともに役割を終えた。その後は、1947年から1997年まで、病院としても使われていた。この暗さは、戦争遺跡であり、病院跡からくるものだろう。現在では、半分近くが国立環境研究所の研究施設となっているが、これだけの規模で戦争遺跡が残されているのは、全国でも稀だという。
それが、先月から美浦村の「大山湖畔公園」の一部として公開された。今まで、立ち入り禁止になっていた構内に入って見学できる。例の謎の建物の内部まで入れるという。そこで、長い間の謎を解こうと思って、早速、昨日訪れた。

当時の「自動車車庫」は、赤茶色に錆びたトタンと鉄骨で組み立てられたガランとした空間となっていて、その中が見学受付所と週末カフェがある。もちろん、冷房などは無い。工場用の扇風機に吹かれながら、地元のおじさんがやっているカフェ(?)で「冷やしうどん」と「おにぎり」を食べた。いかにも廃墟見学にふさわしい素朴なメニューだ。

午後2時から、本庁舎のガイドツワーがあるという。まだ時間がある。それまでの間、構内の各種の遺構を見て回ることにした。
生い茂った夏草の上を湖からの風が渡る。その遠くに朽ちかけた建物が見えた。青い空に真っ白な積乱雲、深い夏草の緑の海の上に赤茶けた建物。ところどころ破壊されて穴の空いた建物の壁には、ツタやクズの蔓が這い上がっている。過ぎ去った時間を感じさせる。

まず、ツタが巻きついた高い煙突のある「気缶場跡(ボイラー室)」に入った。厚く塵が積もった薄暗い中から、巨大なレンガ作りの本体と錆びた重厚な鋳物のボイラーの蓋が浮かび上がった。ランカシャーボイラーというらしい。これで基地全体の暖房をまかなっていたという。

次は、「自力発電所跡」だ。草原の中にほとんど鉄骨だけとなった建屋が現れた。不謹慎な表現だが、剥き出しの鉄骨構造物は美しい。中に足を踏み入れた。発電機や動力機械の土台となっていた分厚いコンクリート床を踏みしめた。いたるところに穴があって水が溜まっている。大きな陶器の碍子が転がっている。窓と天井はほとんどが抜け落ちて、その間から青空に浮かぶ積乱雲が見える。梁の鉄骨は赤黒く錆びて、それに緑の植物が巻きついている。悲しさを秘めた美しさだ。昔、映画で見たことがある人類が滅亡した後の世界を思い出した。

いよいよ、午後からガイドの案内で、「本庁舎跡」に入った。ここは、コンクリー製だったので、現在まで残っていたのだ。石とコンクリートを多用した重厚な作りが海軍の建物に多いそうだ。灯もほとんど無い薄暗い廊下を歩いて、当時の司令室や会議室、図書室などを見て回った。分厚いテーブルも当時のまま置いてある。今から約80年前、このテーブルを囲んで、どんな人たちが何を語っていたのだろうか。どんな軍靴の音が、この石の階段に響いていたのだろうか。

 

最後に、兵士たちの洗濯物干し場と風呂場の遺構を見たときは、彼らの平凡な日常生活を発見したようで、やっと明るい気持ちになれた。

「夏草や兵どもが夢の跡」    芭蕉

 

夏の日差し

今日は朝からすっかり晴れて、強い夏の日差しが庭の木を照らしている。ピーは、開け放たれた窓枠の上に乗って庭を眺めては、「今日も暑くなりそうだ!」と溜め息をついている。

夕方、筑波山の上に大きな入道雲が立ち上った。落日の光が雲に遮られて、天空に大きな矢印形の影を投影している。(わかった!ワカッタ!太陽はそこにあるのだね)。昨日の激しい雷雨で大気が澄んだのだろう。いつもより空の蒼さが濃いようだ。

 

真夏の日

連日、酷暑の日が続く。どうか、今日の夕方には雷が来て欲しい。そんな願いを空の雲に託しながら、カキ氷を食べている。窓から見える田んぼの稲は、緑の穂が出揃った。時折吹く風がアシの葉を揺らしている。

ハスの花

こう毎日暑くては、水の近くに行きたくなる(笑)。そこで霞ヶ浦の湖畔に行った。あちこちに蓮田が広がっている。ちょうど今頃は花の季節。大きな白やピンクの花が、鮮やかな緑の葉の中のあちこちに首を出している。車を止めて写真を撮ろうとしたが、多くが閉じている。そのはずである。ハスの花は、早朝に開花して昼頃には閉じるのだ。

それにしても、何度見ても見事な美しさだ。ヒンドウー教や仏教などの世界の宗教で「聖なるもの」の象徴としているのがよく解る。それに、花も実も葉も根も、植物体のすべてが食べられる。見て美しく、食べて美味しい。加えて「アリガタイ」。こんな完璧な植物は他に無いのではないかと思う。