筑波古道(府中街道)その2

 今では、通る人も無く寂しい道となった「府中街道」の中ごろに、小さな沢が道を横切っている。この沢は、昔から地元の人に「ナガレカンジョウ沢」と呼ばれている。漢字で書くと「流れ勧請沢」である。昨日紹介した句碑にある「かなかなや流れ官女の木立闇」の「官女」は、「勧請(カンジョウ)」をかけたものだろう。この句には、山道の静かで寂しい感じが良く現れている。そのはずである。「流れ勧請」には、悲しく寂しい話が付きまとっている。

 「流れ勧請」とは、主に難産で死んだ女性の供養のために、小川のほとりに四方に竹などを立てて赤や白い布を広げて貼り、そばに柄杓を添えておく。そこに通行人から水を注いでもらう。布の色が褪せたり布が朽ちたら、やっと成仏できると言われている。これは全国的にあった風習で、イザベラ・バードは旅日記に「初めて母になる喜びを知った時に、この世を去った女が、前世の悪業のために血の池地獄に落て苦しむことを示している。そして傍らを通りかかる人に、その苦しみを少しでも和らげてくれるように訴えている」と書いている。昔は、衛生状態も悪く、お産で死ぬ女性も少なくなかった。その悔しさ、悲しみが、このような風習を生んだのだろう。

 多くの人々が行き交った「府中街道」のこの小さな沢でも、こうした「流れ勧請」の供養が行われていたのかも知れない。地元に住む友人も、昔、おばあちゃんから聞いたことがあると言っていた。実際、筑波山周辺の村では、戦後まで行われていた。

 昔、ここで実際に「流れ勧請」が行われていたのかと思いながら、ふと、あたりを見回すと、一層「木立闇」が濃く感じられた。

「流れ勧請」の沢

筑波古道(府中街道)を歩く

 昨日、万葉の頃からあったという「府中街道」を歩いてきた。筑波山に登る道は、多数あるが、この道がもっとも古い。この街道は、国府のあった府中から柿岡宿ー小幡宿ー十三塚ー風返峠ー東山ー筑波山神社のルートであり、国府から筑波山に登る最短のルートである。また、この道は、江戸時代初期に幕府が管轄していた地方主要道(五街道に次ぐ)のひとつ「瀬戸井街道」の一部と重なっている。

 この府中街道は、八郷の十三塚から登りにかかると、間も無く赤滝があり、やがて風返峠を越えると白滝がある。この白滝は巨岩の上に神社が建てられていて、脇を滝行をした沢が流れている。周囲は巨木で囲まれていて昼でも薄暗く神秘的な場所である。ここから山腹を歩いて筑波山の「東山」に通じる道は、今では通る人も無く消えかかっている箇所もあるが、おかげで昔の雰囲気がよく残っている。途中には、石碑がいくつも立っていたり、稲荷神社や歌碑、旧東大地震観測所があったりと、古い時代の記憶が所々に残されている。

 現在は、消えかかったような静かな道だが、昔、東山が花街だった頃、石岡から酒や醤油などを運んで風返峠を越えて運んだ道である。幕末には、天狗党が筑波山で決起するのに通った。もしかすると、萬葉の時代に高橋虫麻呂や国府の役人たちが、和歌を口ずさみながら通ったかもしれない(笑)。奈良時代から明治時代までの長い時間、多くの人が行きかった道なのである。そんな事を想像しながら歩いていたら、間も無く東山集落の入り口に達した。大きなケヤキと巨岩の下に水が湧いている。筑波六井の一つ「香の井」である。井戸を管理している方に頼んで飲ませてもらった。柔らかな甘みのある水である。歩いてきて喉が乾いたのでなおさら美味い。嘘か本当か知らないが、雇人が酒を運んで峠を越えてひと休みをする際に、つい飲んでしまう。減った分をこの泉の水を加えて届けたそうだ。客は「スッキリとして喉越しが良い」と言ったとか。(笑)

行人塚稲荷
句碑の説明文(「官女」の話は後で)
香の井

閻魔堂の梅

 風邪も治ったし、天気も良い。久しぶりで益子の西明寺に行った。いつ来ても、ここはひっそりとしている。閻魔堂の前の梅が咲いて、早春の陽を浴びて白く光っていた。いつものように、客のいない休み所(独鈷所)で、チーズケーキを食べコーヒーを飲みながら、長いこと薪ストーブの前で持参した文庫本の小説を読んだ。
帰りは、近くの地蔵院と綱神社に寄った。

綱神社 (国重要文化財)

玉田海岸まで海を見に

 昨夜、38度近くの熱があり、咳が激しかった。もしや流行り病かと思ったが、夜中に再び計ったら、36度6分の平熱に戻っていた。今朝起きたら、咳も止まって気分も良い。天気も快晴だし、このモヤモヤ感を一掃しようと、いつもの鹿島灘の玉田海岸まで海を見に行った。

 海は、真っ青な空を映して濃いブルーに輝いていた。はるか遠くに小船が一艘航行している。大きな鷹が空を横切った。コーヒー飲みながらゆっくり眺めようと、お気に入りのカフェに入った。ここはテーブルに座ったままで大きなガラス窓から海が見える。庭にはテーブルと椅子席があって、そこに座ると真下の松の向こうに太平洋が広がり、波の音と香りが直接味わえる。驚いた!こんなに集落の奥まった場所なのに若い人や家族連れでいっぱいである。確かに、デートスポットに最適かもしれない。海を眺めながら二人でお茶を飲む。潮騒を通奏低音にして語り合う。何だか、ドラマのワンシーンのようだ(笑)

「やっぱり、海はいいな〜。」かなわぬ夢だが、いつか海の見える高台に住みたい。毎日、窓から双眼鏡で遠くの海面を眺めて暮らしたい。・・・・・ どうやら、まだ、風邪が治りきってないらしい(笑)

節分の料理

 今日は節分である。そこでイワシをストーブで焼いた。匂いが小屋中に溢れる。この光景を見ていて、遠い昔を思い出した。田舎の爺さんが、同じようにイワシを焼いて、これを酒の肴にしてかじりながら、うまそうに熱燗を飲んでいた姿だ。その頃のイワシは、エラのところに藁が刺してあっていくつもが繋がっていた、確か「メザシ」と言ったが、今でもあるのだろうか?

 もう一つ、節分に食べるものとして、お隣から「こづゆ」を頂いた。これは会津地方の郷土料理で、お祝いや来客があった時などの「晴れ」の日に振る舞われたものだ。内陸の会津地方でも入手可能な乾物の海産物や芋などを素材にしている。本当は、会津塗りの小振りな朱塗りの椀でいただくのが正式だが、山小屋にはそんなお椀は無い。それでも、この料理の素朴で滋味深い味わいが寒い夜の身体に沁みた。

古いロシアの切手

 北条の『ポステン』で待ち合わせて、Tさんから母親の叔父が所有していたという古い外国の切手を見せてもらった。彼女は、その切手を受け継いで、四十年間も箪笥の中に入れて置いたという。それを整理したいので、有効に使ってくれる人を探しているという。テーブルの上には、古くなって変色している何百枚もの切手、それが保管されていた時代がかった紙箱と鉄箱、そして、切手がびっしり貼られてバラけかかった黒表紙の手帳が無造作に広げられた。それらが醸し出している雰囲気に驚いた。過ぎた時間の重みに深く感動した。

切手帳(右は文学者のもの)

 切手は、ロシアのものが中心だが僕の知らない国のものも多い。単色刷りだが、図柄は、偉人や英雄などが多い。ロシアの文豪や詩人の肖像もある。例の社会主義国の「槌と鎌」が入ったのもある。発行年代は、19世紀後半から20世紀前半のものがほとんどで、ロシア革命(1917)を挟んで前後のものが多い。発行国はロシアの他に周辺の国々や東欧諸国のものである。多くの切手には当時の消印が押されている。これが当時の時代の雰囲気をなおさらリアルに感じさせる。

スウェーデンと読める(1860年代から1930年代のもが多い)


 はたして、これらの切手は、どんな手紙に貼られていたのだろうか。革命の熱い思いや未来の夢か?社会の動乱か?生活の嘆きか?戦争の悲劇を綴ったものか?恋人同士のものか?・・・・。これらの切手が百年前の知らない外国の人の「思い」を運んだ「証」だと思ったら、たまらなく貴重なものに思えてきた。

(当時のロシアや東欧を研究している方で、興味がある方はご連絡ください。 ramunos@icloud.com )