ピーがいない!・・・

一昨日のこと、朝起きたら、いつも「おはよう!」と近づいてくるピーの姿がない。外に遊びにでも行っているのだろうと、気にもとめなかったが、昼になっても戻って来ない。こんな事は初めてだ。少し心配になったが、僕は用事で外出しなければならない。帰る頃には戻っているだろうと軽く考えていた。しかし、用事が済んで小屋に戻っても、まだ、ピーの姿が無い。置いておいたキャットフードも食べた形跡がない。心配になってきた。だんだんと陽も暮れてきた。森に暗闇が迫ってきた。「ピー、ピー」と喉が痛くなるほど大声で呼んだ。いつもなら、「ボクはここだよ」といいながら、藪の中から現れるのに今日は来ない。

もしかすると、交通事故にでもあって、その辺で死んでいるのではないか?何か毒でも食べて草むらで倒れているのではないか?今頃、一人で苦しんでいるかもしれない。いろいろと不吉なことが頭をよぎった。必死で小屋の周辺の道路や林を探した。黒い塊を見ると、もしかしてピーかと思い、何度も近づいたが、いずれも草むらだったり木の株だったりした。その度にドキリとしてやがて安心した。頭上の杉の梢では、カラスが鳴いている。日頃、こんなにカラスが鳴くことはない。しだいに、ピーのやつ、僕に別れの挨拶もしないで死んでしまったのかと思うようになってきた。あいつが僕のところに来た時は、掌に乗るくらい小さな子猫だった。その愛くるしい姿が思い出された。もう、それから15年間、ずうっと一対一の生活を送ってきた。お互いに何を言っているのかも、少しは分かるようになってきた。この15年間のいろいろな思い出が駆け巡る。寂しい時も嬉しい時も一緒だった。不安なとき、どんなにアイツに慰められたことか。励まされたことか。それが、今日、すべて終わったかもしれないのだ。悲しみが込み上げてきた。

半ば諦めて、明日明るくなったら、もう一度探してみよう。そして必ず亡骸を見つけてやろうと思いながら、ベッドに着こうとした。その時である!ベッドの足と裏ドアの狭い隙間に黒い塊が横たわっているではないか!そっと、触って見たら、フワフワした温かな毛並みに触れた。ピーだ!こんなところにいたのか?でも、グッタリしている。どこか具合が悪いようだ。そっと、抱き上げて布団の上に寝かせたが、また、よろよろとした足取りで、薄暗いベッドの隙間に隠れてしまう。昨夜から何も食べていないようだ。そこで、閉店間際のスーパーまで車を飛ばし、魚のゼリー状のキャットフードを買ってきて、口元に差し出したら少し食べてくれた。これなら大丈夫だ!安心した! どうしたのだろうか?何か病気だったのだろうか。この連日の暑さで日射病になったのだろうか?

幼い頃のピー

今日はすっかり元気になり、以前のように、僕と遊んだり、外で遊びまわっている。ピーに言い聞かせた。「少なくとも、お前はあと五年間は元気で生きるのだぞ!」と。あいつは解っているのか解らないのか、「ピューイ」と鳴いて返事した。

野生動物のサンクチュアリ

庭の南側に行ったら、草地が何者かに掘り返されて大きな穴が空いていた。犯人はイノシシに違いない。イノシシの奴め、地中の昆虫やミミズを探したのだろう。昨夜の仕業に違いないが、僕は全く気が付かなかった。

もともと、庭の南側は野生動物たちのサンクチュアリにしようと思って、ヒノキやサワラ、シラカシやクス、サクラなどを植えた。今では木々が育って、鬱蒼とした林のようになっている。目論見通りに動物たちの解放区になったのは嬉しいが、それにしても酷い荒らし様だ。

 

梅雨の晴れ間

昨日は、定例の筑波山観察会だった。梅雨の晴れ間の気持ち良い天気だった。この季節、咲いている花は少ない。それでも、ヤマアジサイやノリウツギなどの白い花が、深い緑の陰でひっそりと咲いていた。

ヤマアジサイ

山頂付近では気温が低いせいか、今がウツギの花盛り。そこに、様々な蝶や蜂たちが蜜を求めて訪れていた。その中にアサギマダラの姿を見つけた。この蝶は、南から北へ往復して旅するので有名であり、大型でフワフワとゆったり飛ぶ姿がたいへん美しい。羽根を広げたところを撮影したかったが、なかなか僕の言うことを聞いてくれない。アサギ(浅葱)の名前の由来となった半透明の薄い青緑色の内側が見たかったのに。

ウツギの花とアサギマダラ

 

ホタルの季節

友人夫妻が、ホタルを見たいというので下見に行った。毎日、僕が散歩するコースの脇だ。午後7時45分、あたりはすっかり闇に包まれた。遠くの地平線だけが、ほんのりと明るい。
いた!イタ! 水路の上を数匹のゲンジボタルが飛んでいる。まだ、それ程ではないが、ゆったりと明るい光を発しながら堀の上を飛んでいる。これまで毎年見ていた小川がコンクリートの三面ばりになって蛍がいなくなったのでガッカリしていたが、今回、その近くで新たな場所を見つけた。
八郷のゲンジボタルは、今頃から中旬までの間に多く出現して、それ以降は小さくて忙しない飛び方をするヘイケボタルと切り替わる。ホタルを鑑賞するならゲンジボタル。そして、時期なら今だ!

ゲンジボタルの光は強い。光の点滅も飛び方もゆったりとしている。暗闇で、突然、一匹のゲンジボタルと出会うとドキッとする。誰かの「魂」と出会ったかのように・・・。

 

サワフタギと電車虫

雨の合間に庭に出た。サワフタギの花が満開だった。薄暗い藪の中で、繊細な白い花がよく目立つ。近づいたら、いた!いた! 僕の好きな「ホタルガ」の幼虫が食事をしていた。成虫も美しいが、幼虫も赤と黒と黄色で飾って、なかなか美しい。子供達は、この背中の黄色い斑が、夜の電車の窓から漏れる灯りのようだとして「電車虫」と呼んでいる。猫バスの窓のようだと「猫バス虫」とも言っている。サワフタギは、この後、宝石のような美しいブルーの実を付ける。

ムササビの赤ちゃん

午後3時過ぎ、突然、Sさんから電話があった。「いま、大変なことがあったのよ!」と。何事かと思って聞いたら、小屋近くの林道で、赤ちゃんのムササビらしい動物を見つけたという。早速、案内してもらって現場に駆けつけてみたら、杉の葉や小枝の間に黒みがかった小さな動物がうずくまっていた。僕らが近づくまで、おとなしくしていたのに、Sさんが近寄ったら急に鳴き出した。「ギュルル ギュルル」と小さな体を振り絞るような声で鳴いている。確かに、これはムササビの赤ちゃんだ。数年前、自然博物館の調査をした時、この辺りでフンを見つけて生息を確認したことがある。でも、実物を見たのはこれが初めてだ。きっと、杉の木の巣穴から落ちたのだろう。そして、母親に必死に助けを求めているのだろう。可哀想な子だ!

そっと、手の上に拾い上げた。フワフワの柔らかな毛並みとほの暖かい体温が優しい感触である。ずっと、手の中に包んでいたい気持ちになる。まだ、目が開いていない。時々、小さな赤い口を開ける。お腹が空いているのかも知れない。お母さんのおっぱいが欲しいのだろう。もう、Sさんはすっかりこの子が可愛くなってしまって、手放せない。ここに置いて他の動物に襲われるくらいなら、連れて帰って育てたいと言っている。ムササビの赤ちゃんも、鋭い小さな爪でSさんの手にかじりつく。「連れてって!」と、必死でお願いしているようだ。ますます、置き去りに出来なくなる。

でも、野生の動物を育てるのは難しい。それに許可も必要だ。もしかすると、夜になったら母親ムササビが助けにくるかもしれない(慰めかも)。人間が下手に手を出すより、「自然のものは自然にまかすのがいい」と言って、やっと連れて帰るのを諦めさせた。おそらく再び巣穴に戻れることはないかも知れないが、、、、。


 もといた場所に、そっと置いて帰ろうとしたら、赤ちゃんムササビが一層大きな声で鳴きだしたような気がした。「僕を一人ぼっちにしないで! お願いタスケテ!」と言っているかのように・・・・・。

小鳥のレストラン

 誰でも、食事は落ち着いたところでしたいもの。今、小屋の裏庭にあるレストランは大流行りだ。朝早くから、入れ替わり立ち代わり小鳥たちが訪れる。ここは、彼らにとって安心して食事が出来る場所なのだろう。それに、他の水場が凍って飲めないときでも、小屋のマスターが井戸水を入れておいてくれるので大丈夫だ。傍には、パンくずとキュイフルーツの入った餌台まである。

 今朝も、常連のヒヨドリのほか、シジュウカラ、メジロのカップル(?)、アオジ、綺麗なルリビタキの雄と地味な雌、それにシロハラがやって来た。昨日などは、ヤマガラ、シメまでが来た。彼らが5分おきぐらいに引っ切りなしに訪れるものだから、小屋のマスターは朝食のパンを片手に、双眼鏡を覗いたり、図鑑で確認したりと大忙しだ。

オオゲジが遊びに来た

 小屋にはいろいろな生き物が現れる。可愛いのもいれば怖いのもいる。いつも枕元に『小学館の図鑑 NEO ー 昆虫 ー』を置いておき、いつでも正体が調べられるようになっている。結構、これが楽しい。虫たちは、暇を持て余している僕の良き遊び相手になってくれる。

 今夜は、昆虫ではないが、オオゲジが遊びに来てくれた。いわゆる、ゲジゲジだ。長い脚と触覚を持ち、いかにも強面の虫だが、性質は穏和で人間には害を与えない。むしろ、ゴキブリや蛾などの小昆虫を捕食してくれる有難い存在だ。捕まったら、長い足を自ら切って逃げる。見掛けだけで損をしているかわいそうな奴だ。

女化神社の狐

 流山の自宅から八郷に戻る途中、牛久市の女化神社に寄った。この神社は、龍ケ崎市の飛び地、だから、正確には龍ヶ崎市の女化神社が正しい。3、40年も昔のこと、この神社にお参りして、その後、拝殿の裏側の道路を横断して更にまっすぐ北に向かって歩いて行った記憶がかすかにある。そこには深い森があって、塚のようなところだったように覚えている。鳥居もあったかもしれない。ここが、本当にお狐様を祀っていつところで、そこには実際にキツネが住んでいるとも聞いた。

 今回、神社に寄った訳は、その記憶が夢だったのか現実だったのかを確かめたくなったからだ。

 小道は北に向かって、まっすぐに続いている。遠くの方に赤い鳥居が見える。はやる気持ちで小道を進むと、小さな鳥居が森の外れに立っていた。更に先に続いている。両側から大きな木が茂り、道は薄暗くなる。地面には、木漏れ日が落ちて光の模様となっている。やはり、現実だった!夢ではなかった! やがて、小道は常緑の木々に囲まれた丸い空き地のようなところで終わった。わずかに高くなった円地の周囲には、幾つもの小さなお稲荷さんが祀られていた。ここまで来る人はほとんどいないのだろう。ひっそりとして、不気味なほどの静寂が漂っている。やはり、ここは特別な聖地のようである。

 

 小屋に戻ってから、ネットで調べたら、どうやらここは「女化神社の奥の院」らしい。
女化神社の伝説では、命を助けられたキツネが、美しくて優しい女性になって(化けて)嫁となって恩返ししたが、ある日、うっかり昼寝していて尻尾を出してしまい、子供達にその正体を見破られて一緒に暮らせなくなってしまった。その母親のキツネが逃げ込んだ場所が、今日僕が訪れた場所だという。やはり、特別な場所だったのだ!
 いまでも、この周辺は丘陵が複雑に入り組み、深い林や田んぼが広がっている。昔は、キツネがたくさん住んでいたのだろう。いや、いまでもキツネがいてもおかしくない。もしかすると、この場所は、稲荷信仰から、里の人が、実物のキツネに好物を捧げていた場所かもしれない。人間と狐の接点の場所だったのかもしれない。

謎の豆粒

 今日、古民家に行ったら、「ここで節分の豆まきしたの?」と聞かれた。「いいや、なぜ?」と問うたら、座敷のあちこちに豆が落ちているからという。その幾粒かを拾って見せてくれた。確かに、一見、大豆のように見える。まさに節分の豆のようでもある。しかし、更に良く見ると、豆より細長い形をしていて、割ると中まで粉状のものがビッシリ詰まっている。これは、決して大豆ではない。

謎の豆粒


 それでは、これは一体何だろうかと皆であれこれ話した。形はネズミの糞のようであるが、色が白くて固く、ネズミのように黒くない。こんな豆粒を見たのは初めてだ。では、小鳥か、ハクビシンか、ムササビか、もしかすると座敷童の落し物かなどといろいろな意見が出たが、さっぱり結論に達しない。結局、僕が幾粒かを持ち帰って徹底的に調べることにした。でも、まだ、今のところ何もわからない。 どうか、ご存知の方がいたら教えて欲しい。

カモを見に

K先生の情報によると、昨日、八郷の溜池でオシドリが見られるとのことで、さっそく見に行った。残念! いくら探しても見つからない。でも、陽だまりで屯ろするマガモとコガモの群れを観察できた。雄のマガモの首に陽が当たると、青味がかった鮮やかなグリーンに輝く。実に美しい!オシドリが見られなくとも十分満足した。

左の3羽がマガモの雄

ルリビタキとの再会

 何という偶然だろうか? 『えんじゅ』を終えて小屋に戻ったら、近くの足元に何かが飛び込んで来た。グッ グーというような低い鳴き声が聞こえる。カエルのようだが冬眠から目覚めるのが早すぎる。目で追ったら、庭のドイツトウヒの下枝に止まっているルリビタキを見つけた。しかも、ブルーの背とオレンジの腹が鮮やかなオスの個体だ。今年、初めての出会いに思わず、「ヤァー!久しぶりだね」と声をあげてしまった。

 小屋に入って、何気なく Facebook をクリックしたら、真っ先の画面に「過去の思い出」として3年前の投稿記事と写真が表示された。日付けを見たら、2019年1月29日の投稿で「今日は何か良い事があるのかな?朝起きたら、窓の前にルリビタキが遊びにきた。綺麗な青い鳥だ。」とあった。まさか、同じルリビタキが、同じ日に訪れたとは思えないが不思議な偶然に驚いた。

ルリビタキ(2019-1-29)

 まだまだ、寒い日が続いているが、来週は立春である。明るい時間も長くなった。もう、小鳥たちは、もうすぐ春になるのを知っているのだろうか。このところ、様々な鳥のさえずりを耳にする。今朝は、隣の林からイカルの甘いさえずりが聞こえた。シジュウカラも鳴いていた。この寒さももう少しの我慢だ。ストーブの薪も、何とかこの冬は持ちそうだ。

生飯台に来た鬼神衆

 昨年の夏、庭に「生飯台」を置いた。(生飯台とは何かは、以前FBにアップした下の記事を見て欲しい。)この上に食べ物を供えておくと、夜中に何者かが来て、朝になると無くなっている。はたして、どんな鬼神衆が来ているのか、長いこと判らなかった。・・・ ついに、その正体を掴んだ。ヒヨドリだ! まあ〜、ヒヨドリも生きものだから良しとしよう。でも、本当は魑魅魍魎や餓鬼衆などの怪しげな者たちか、せめて、エナガとかメジロとかのもっと可愛い小鳥たちに来て欲しかった。
 長いこと正体が判らなかったのは、ただ僕が朝寝坊だっただけ(笑)。

2021年7月9日の記事 
 庭のカツラの木の根元に『生飯台(さばだい)』がある。夕方、この石の上にほんの少しの食べ物を置いておく。そして、小さな声で「汝等鬼神衆 我今施汝供 此食遍十方 一切鬼神共」とつぶやく。意味は、「鬼神たちよ!いま私はあなた方に食事を供養する。この食事が普くすべての生きものたちに届かんことを」というもので、それは、目に見えない鬼神たちや、三界の万霊、そして自然界の小鳥や昆虫や動物たちに食べ物を分け与えて供養しようとするものである。
 禅宗(曹洞宗)の修行道場では、食事の時に、自分に配膳されたご飯やおかずの中から、この「生飯の偈(さばのげ)」を唱えながら七粒のご飯を選り分けて、それを集めて生飯台の上に供えるのである。これは、ありとあらゆる一切の他者に食事を与えるという施しの心を表している。
 僕はこの禅の作法をとても美しく感じる。この施しの心が素晴らしいと思う。自分もやってみたくなったので、真似して生飯台を作ったのだ。いつも夕飯のごく一部をこの石の上に置く。すると、不思議なことに、朝起きてみるとすっかり無くなっている。夜中、僕が寝ている間に、鬼神たちや餓鬼衆、生きものたちがやってきて食べているのだろうか?いつか、無人カメラでも仕掛けておいて、一体、誰が食べているのか確かめたい。案外、我が小屋の「鬼神」は、ピーだったりして(笑)