不動坂

どこで石榴石が拾えるのかと聞かれたので、30年も昔の記憶を頼りに真壁の山を歩いた。断片的なわずかな記憶だけだ頼りだ。ありがたいことに地形や森の様子はそう変わっていない。でも、訪れる人はほとんどいないようだ。かつて道だったところは、一面草に覆われている。踏み跡もない。蜘蛛の巣を払いながら進むと、高いところから誰かに見られている気配がした。ふと、頭をあげたら、一枚岩の上の岸壁から、お不動様が見下ろしていた。石作りの立派な社に入っている。誰もお参りに来ている様子はないが、まだ信仰はかすかに生きているようだ。挨拶でもと思い、近づいたら、そのギョロ目の素朴な風貌を見て一挙に緊張が和んだ。

そこで、この山道は、昔、「不動坂」と呼ばれていたのを思い出した。

 

出島、長福寺の椎

かすみがうら市の出島地区は興味あるところだ。霞ヶ浦に突き出た半島のような地形である。霞ヶ浦大橋が出来るまでは、外からの影響の少ない地域だったかもしれない。そのために、ここには古くからの文化や民俗や信仰が残っているように思える。
今日は、その最深部といえる下軽部にある長福寺の椎の巨木を見に行った。この辺の特色であるなだらかな凹凸の地形が広かっている。低地は水田であり、微高地は屋敷林と雑木林。その中に隠れるようにして畑と農家が点在している。無住の長福寺は、その一角にひっそりと佇んでいる。この長福寺はかなりの古刹だったようだ。説明板によると「真言宗豊山派の寺で、かつては十万石の格式を供え、南大門を有し、本堂は間口十八間、奥行き十間、九尺の縁廻し、総けやきの荘厳な寺院だった」が、度々の火災によって、現在昔を偲べるのは宝篋印塔と山門、そして椎の木ばかりになったという。

誰でも、椎を見ようとすると必ず足を止めるだろう。怪異ともいえる椎の姿に恐れをなすに違いない。高さは十数メートルとそれほどでもないが、まっ黒い巨大な幹(胴回り7m)の姿の異様さに驚かされる。長い歴史の怨念や祈念が樹木の形となっているかのようだ。この椎は樹齢七百年とも推定されるが、長福寺の盛衰をじっと見てきたのだろう。出島の出来事をじっと聞いてきたのだろう。

この廃寺同然の長福寺を、一層寂しく不気味にしているのは、小さな祠、石仏、石塔などのいたるところに貼られている何百枚ものお札である。薄暗い、椎の巨木の前の小さなお宮にも、ベッタリと貼られていた。由緒ありげな宝篋印塔にも貼られていた。僕は、このような光景を他では見たことがない。この土地の風習なのだろうか。

突然、一陣の風に吹き抜けて行った。一斉にお札がヒラヒラとたなびいた。椎の葉がざわついた。

 

 

小野越の北向観音堂

つくばから不動峠を越えて八郷に戻った。途中、「北向観音堂」の標識があったので寄ってみた。ここを訪れるのは何年かぶりだ。久しぶりの北向観音堂は、深い木々に隠れるように、ひっそりと佇んでいた。苔むした石段が歴史を感じさせる。

北向観音堂は、昔、仏生寺にあった「龍光院」の別院で、伝説では、天平年間(8世紀)に行基が常陸国府を訪れ、夜、この方向に瑞光(めでたい光)を見たので、仏像を彫らせ堂宇を建て安置したという。また、山の反対側の小野村に、年老いて病気に罹った小野小町が逗留した際に、峠を越えて、この北向観音にお参りに来たら、たちまち病が全快して若かった頃のような美貌に戻ったという。この伝説によるためか、昔は関東各地から、主に女性の参詣者が絶えなかったという。朱のお堂も小ぶりである。内部の厨子には細かな彫り物が絵付けされていて、天井絵も描かれている。今でこそ色あせているが、全体が優美な作りである。いかにも女性のための祈願所という趣である。

今から二十年以上前に僕が初めて訪れた当時は、お堂が腐って屋根が落ちかけていた。雨水が中を濡らすほどだった。扉に張り紙があったので読んだら、「修復したいが、近隣の農家14件ではどうにもなりません。どうか、ご協力を」と書いてあった。そこで、職場の女子職員に「女性のための仏」だから協力をしなさいと言って、(半強制的に)一口500円で6人から寄進してもらった。その後、丁寧な令状が届いたが、そのまま数年忘れていた。ところが、八郷に住むようになってから、ある日、何気なく訪れてとても驚いた。観音堂は、綺麗に修理されて屋根も新しくなっていたし、仏像も修復されていた。しかし、お堂の側面に貼られた寄進者名簿の最末席に僕の名前がはっきりと書かれているではないか!金三千円也は僕だけ。先日、訪れたが、まだ、寄進者名簿の板は貼られたままだった。二十年間以上も恥を晒し続けているのだ。これが、観音堂へ僕の足を遠ざけていた理由である。あの時、少しでも僕が加えておけば良かったと反省したが、もう遅い。

(追記)お堂に祀られている観音像を修復した仏師から聞いた話である。もともと、ここの本尊は「秘仏」で、見ると目が潰れるとか言って、村人も目にする事はなかった。毎年、それが収納されている箱を振っては、重みを感じ音を聞いて存在するのを確認していたそうだ。今回の修復に当たって、秘仏の箱を開けてみたら、石ころが入っていただけだった。いつ、誰が盗んで石ころにすり替えたのかも判らない。
秘仏の場合、参詣者のために「御前立尊」と言って代わりの仏像が用意されていることが多い。今回修理したのは、その「御前立尊」だったのである。しかし、この代役の仏像も鎌倉時代のもので見事なものだったそうだ。

 

 

西明寺の友達

益子の西明寺の本堂に上る石段の脇に座っている小さな石仏たちは、僕の古くからの友達だ。いつも、ここを訪れる度に、必ず彼らに挨拶する。「どう、みな元気にしてた?」「子供は、大きくなったかい?」。仲の良い二人と赤子を抱いたお母さん、そして優しい表情のお地蔵さん。いつ会っても、ニコニコと笑顔で迎えてくれる。皆が、たまらなく可愛い。彼らに会うと、心が暖かくなる。

筑波古道(府中街道)その2

 今では、通る人も無く寂しい道となった「府中街道」の中ごろに、小さな沢が道を横切っている。この沢は、昔から地元の人に「ナガレカンジョウ沢」と呼ばれている。漢字で書くと「流れ勧請沢」である。昨日紹介した句碑にある「かなかなや流れ官女の木立闇」の「官女」は、「勧請(カンジョウ)」をかけたものだろう。この句には、山道の静かで寂しい感じが良く現れている。そのはずである。「流れ勧請」には、悲しく寂しい話が付きまとっている。

 「流れ勧請」とは、主に難産で死んだ女性の供養のために、小川のほとりに四方に竹などを立てて赤や白い布を広げて貼り、そばに柄杓を添えておく。そこに通行人から水を注いでもらう。布の色が褪せたり布が朽ちたら、やっと成仏できると言われている。これは全国的にあった風習で、イザベラ・バードは旅日記に「初めて母になる喜びを知った時に、この世を去った女が、前世の悪業のために血の池地獄に落て苦しむことを示している。そして傍らを通りかかる人に、その苦しみを少しでも和らげてくれるように訴えている」と書いている。昔は、衛生状態も悪く、お産で死ぬ女性も少なくなかった。その悔しさ、悲しみが、このような風習を生んだのだろう。

 多くの人々が行き交った「府中街道」のこの小さな沢でも、こうした「流れ勧請」の供養が行われていたのかも知れない。地元に住む友人も、昔、おばあちゃんから聞いたことがあると言っていた。実際、筑波山周辺の村では、戦後まで行われていた。

 昔、ここで実際に「流れ勧請」が行われていたのかと思いながら、ふと、あたりを見回すと、一層「木立闇」が濃く感じられた。

「流れ勧請」の沢

益子の西明寺にて

 益子の西明寺に、今年一年なんとか無事に過ごせたのでお礼を言いにいった。この西明寺と僕は縁が深い。約50年にもなる付き合いだ。若かった頃、妻と益子駅から歩いてお参りに行ったこともあるし、前の住職で元内科医の田中雅博氏が亡くなった朝にも訪れている。また心を鎮めたいときなどもふらっと訪れては境内でのんびりと過ごした。だから、ここの本尊である十一面観音様や閻魔大王とは、旧知の仲だ(笑)

 今日訪れたら、入り口の広場がいつもと様子が違う。人が多くいて屋台を組み立てている。聞いたら今夜の除夜の鐘と明日からの初詣の準備だという。しかし、本堂に向かう石段を登ったら、いつもと同じように鬱蒼とした椎の巨木が両側から覆いかぶさり、数百年を経た楼門、三重塔、本堂や閻魔堂が、ひっそりと佇んでいた。いつもと違うのは、本堂の周囲を真新しい紫の布幕が張りめぐされていたことだ。

 帰り、石段の登り口にある茶店(『独鈷所』)で休んだ。ここの蕎麦は美味しくていつも昼食は必ずここと決めていた。しかし、蕎麦打ちする人が辞めたので今は無いという。コーヒーとケーキだけだという。仕方がない、それならと注文した。ところが出されたコーヒーとチーズケーキには驚いた。そのいずれもが実に美味いのだ。レベルが、その辺のカフェをはるかに凌ぐ。そのはずである。ケーキはどこのだか判らないが、コーヒーは僕もよく知っている真岡の『ソワカフェ』が焙煎した豆をちゃんとドリップして出している。

 お正月騒ぎが落ち着いた頃になったら、西明寺にお参りして心身を清浄にし、その帰り、ぜひ茶店で美味いコーヒーとケーキを召し上がって頂きたい。お寺の話が、だんだんコマーシャルになってしまったので、この辺でもう止める(笑)。お寺のことを詳しく知りたい方は、最後の写真の和讃を読んで欲しい。

石段から(左の建物が茶店)
西明寺本堂
笑い閻魔大王と部下
茶店でコーヒーとケーキを
和讃

イチョウの寺

山門をくぐったら息を呑んだ。お寺の境内にイチョウの葉が敷き詰められて、黄色に輝いている。ここは、牛久市久野の観音寺。本尊に十一面観音を祀る古刹だ。木々に囲まれた森閑な雰囲気が好きなので、たまに行く。

清音寺にて

僕は、ほぼ隔月ぐらいの割合で城里町の清音寺を訪れる。いつもアポなしで、ふらりと立ち寄るのだ。住職は「そろそろ来る頃だと思った」と言って、いつも歓迎してくれる。昨日もそうだった。大概は、お茶を飲みながら、植物の話をしたり、住職が育てている野草や苔の盆栽を見せてもらう。いつも帰りに鉢をお土産にもらってくる。

 長い杉林の参道の先にある崖に囲まれた境内。境内の樹木やお茶畑には糸ゴケが下がっている。庭の古い梅の幹には、野生のランが着生している。この寺は、東日本では珍しい臨済宗南禅寺派の古刹である。境内に佐竹家の五輪塔が立っている。江戸時代には徳川家の庇護の下にあって、水戸光圀公も何度も訪れている。明治以降、廃仏毀釈で仏像や山門は散失したが、今でも、周囲は山や樹木に囲まれて、いかにも禅寺らしい森厳な雰囲気が漂っている。

 盆が過ぎたばかりだったせいか、昨日はいつになく仏教の話をした。宗派によってお経の唱え方が微妙に違うことを教えてもらい、リズムやテンポ、さらに抑揚や節回し(?)などを、実際に唱えて聞かせてもらった。朗々とした声が境内に響く。背筋がピンとなる。さすが長い間、京都の南禅寺で厳しい坐禅の修行を積んできた声であった。般若心経を茨城弁のイントネーションを真似て唱えたときなど大笑いしてしまった。それが実に上手いのだ。

 2時間ぐらい寺にいただろうか。なぜか、帰るころには、何処と無く心が整ったようで軽やかな気分になった。

参道

高道祖神社

朝から一日中、どんよりと曇って蒸し暑い。こんな天気の日は気分も重くなる。気分転換にと風呂に行った。その帰り、遠回りして下妻の「高道祖神社(タカサイジンジャ)」に寄った。この神社は、太い道路から外れた古い家並みの集落の中にある。神社の規模は小さく、社殿が朱色に塗られている。どこの街にもありそうな神社である。もちろん、参拝者などは誰もいない。

僕がこの神社に寄った訳は、入口の脇にケヤキの巨木(写真)があることと、毎年の3月に奇祭が行われるので有名だからである。その奇祭ぶりは強烈で、男女の性のエネルギーを信仰の対象にしており、男女それぞれの性器を模った紅白のお餅が販売される。以前、知人からお土産に貰ったが、そのリアルな形と触感に驚いた。写真をアップするのが憚れるほどである。なんでも、子宝が欲しい人は、相手の形のものを食べるそうだ。聞いたら、近所のおばちゃんたちが冗談を言い合ったり笑い転げながら、一つ一つを丁寧に手作りしているという。そのおおらかさが実に良い。

どこかに祭の痕跡がないかと、神社の裏手に回って・・・見つけた! 祠の中には、大小様々な石の男根が祀られていた。その前の男根型の石柱は、女性が跨って乗るものだそうだ。

こういう素朴な信仰に、庶民の生命への賛歌と土臭いエネルギーを強く感じる。それが現代まで引き継がれているのが素晴らしい!僕もここでエネルギーを少し頂いて、気分良く八郷に戻った。

蛟蝄神社 門の宮

流山の自宅に帰るのに同じ道ばかりではつまらない、今回は、土浦→龍ヶ崎→利根町→我孫子のルートで帰った。休憩を兼ねて、途中の利根町にある蛟蝄神社の門の宮に寄った。この「蛟蝄(こうもう)」とは、「みつち」すなわち伝説上の「龍」である。神社は台地の上にあって、昔、台地の周囲は流れ海だった。その中にある台地の形が水の中を泳いでいる龍のようだからそう言われた。また、この神社は関東最古の水神様でもある。創建は、おそろしく古い!社伝によれば、「約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。698年に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台 (現在の奥の宮)に神社を建てました。」とある。下総国の延喜式内社の一つでもある。

神社はこの丘の頭のところにある
門の宮


 今回、僕が訪ねたのは、最初に祀った門の宮(かどのみや)である。始まりが約2300年前というのも、あながち誇張ではないかもしれない。なぜなら、現在の社殿は、「立木貝塚」という縄文時代後晩期の遺跡の上に建てられているからである。土偶や装身具、狩猟道具などが多数出土されている。今回尋ねたときにも、社殿の周りには無数の貝殻が散在していた。古くから信仰の場所だったのだろう。他にも、日本武尊、ダイダラボウ伝説など、この神社周辺には多くの伝説が残っている。古い歴史の土地であることには間違いない。

貝塚の上に社が

 今日も若い女性が一人でお参りに来ていた。この赤い鳥居は、アニメの『君が名は』に出てくる鳥居のモデルになったそうだから、よくある「アニメ聖地巡り」かなと思っていたら違うようだ。何かを真剣にお祈りしていた。ここは、隠れたパワースポットとして有名なのかもしれない。

 僕は、それより御神木のイチョウの大木の方が気になった。これほど、大きなものはそう滅多に無い。見上げていたら、その生命力に圧倒された。僕にとっての「パワースポット」だ。秋になったら、どれほど見事な黄葉を見せてくれるのだろうか。今から楽しみだ。

夜の坐禅会

毎月、第一土曜日は、根小屋の泰寧寺で「坐禅会」がある。夏の間は「夜」坐禅で午後7時から始まる。今日も参加してきた。シーンと静まり返った本堂で、壁に向かって線香が燃え尽きるまでの約40分間座る。坐禅を始めた頃は、気持ちが騒いでいたり足が痛くなったりしたが、今では慣れたのか、ただ照明を落した薄暗い本堂で座っているだけで心が落ち着く。柱時計のコツコツという時を刻む音だけが聞こえる。ただ目の前の壁板の木目を眺めている。・・・ 時計の音に集中していたら、遠い昔、子供の頃、田舎の家で家族に囲まれて過ごした夜を思い出した。そこにも柱時計が掛かっていた。・・・ 心の中に温かいものがサッと流れた。少し寂しさを帯びた懐かしさがこみ上げてきた。この感じを、もっと長く心に留めておきたいと思っていたら、終了の鐘が鳴った。坐禅が終わっても気持ちは爽やかなままだ。頭は澄んでいる。今夜はよく眠れそうだ。

参禅されることをお勧めします。

行方の観音寺

 北浦の「梶山珈琲」に行ったらクローズだった。そこで、行方市の「観音寺」に寄って帰ることにした。観音寺は、この辺屈指の古刹だ。大同3年(808年)に満海上人により創建され、鎌倉時代の文応元年(1260年)に、筑波山麓の極楽寺に入った律宗の忍性によって中興された。その後、正平6年(1351年)に東範僧正が中興して天台宗に改宗して現代に至っている。


 寺の周囲を大きなスギの木立ちが囲んでいる。少し冷んやりした空気が包んでいる。ホトトギスが叫ぶように鳴いている。地面の苔の上に、木漏れ日が模様を描いている。「森閑」という言葉が浮かんだ。

仁王門

 市有形文化財になっている仁王門をくぐると正面に端正な形をしたお堂が建っている。その脇の建物には、県有形文化財の「金銅 如意輪観音坐像」が収められている。これは14世紀末に作られたものだ。お堂の裏を更に進むと、薄暗い参道の両側に古そうな墓地が並んでいる。幾つもの苔生した墓は土塁のような中に収まっている。おそらく、この地方の古い一族のものなのだろう。観音寺の本堂は、この先真っ直ぐ進んだところにある。

 丁度この時期、参道の両側には紫陽花が咲き誇っていた。見渡すと、境内のあちこちに青や紫、白、水色やピンクがかったものなど、さまざまな色がある。これほど、美しく咲いているのに眺めているのは、僕一人だけ。本堂の脇の椎の木も天然記念物となっているもので、胴回りは7メートル近くあるだろう。推定樹齢は、500年だそうだ。

僕は、よくその地域の寺社を訪れるが、平地の寺で、この観音寺ほど古刹の雰囲気を保っているところは少ない。巨木の杉林の長い参道を歩いていると、次第に気持ちが落ち着いて心が静かになってゆく。

 

幻覚か?それとも・・・

 このなことがあるのだろうか? しばらくぶりで笠間の西明寺に行った。ここは、僕と縁の深いお寺で、独身の頃から度々訪れている。参拝は勿論だが、楽しみは休憩所で蕎麦を食べることだ。しかし、今日行ったら、蕎麦打つ職人が、この春で退職して、今は「うどん」しか無いという。仕方なく「冷やしたぬきうどん」を注文した。

 うどんを食べていた時のことである。山の上の本堂から降りてきた人影を窓越しに見かけた。通り過ぎるかと思ったら、自動ドアを開けて静かに休憩所に入ってきた。年恰好は、20代後半のスラリとした女性で、小さな柄の白っぽいワンピースを着ていた。綺麗な女性だった。手には何も持っていない。一人とは珍しい。正面通路の先には観音菩薩像が祀られている。その前を左に曲がるとトイレがある。その時、従業の女性はキッチンの奥に下がっていた。客は僕一人だけで、他に誰もいない。入ってきた女性はそのまま進んで、やがて、衝立に遮られて、僕から見えなくった。どこか知り合いに似ていたので、戻って来たならば確かめようと、うどんを食べながら待っていた。

 しかし・・・である。 いつになっても、女性は戻って来ない。少し、不安になって、従業員に、「この先に外に繋がるドアがあるのか?」と聞いた。「いや、無い」という。事情を話して、すべてのトイレを見てもらった。でも、「誰もいない」と言う。彼女が戻れば、僕は気がつくはずだ。絶対に見過ごすことは無い。不思議なこともあるものだ。従業員は「怖い!」と言っていたが、僕は少しもそう感じない。むしろ、「また、逢えた」と思ったくらいだ(笑)。

西明寺参道入口

女化神社の狐

 流山の自宅から八郷に戻る途中、牛久市の女化神社に寄った。この神社は、龍ケ崎市の飛び地、だから、正確には龍ヶ崎市の女化神社が正しい。3、40年も昔のこと、この神社にお参りして、その後、拝殿の裏側の道路を横断して更にまっすぐ北に向かって歩いて行った記憶がかすかにある。そこには深い森があって、塚のようなところだったように覚えている。鳥居もあったかもしれない。ここが、本当にお狐様を祀っていつところで、そこには実際にキツネが住んでいるとも聞いた。

 今回、神社に寄った訳は、その記憶が夢だったのか現実だったのかを確かめたくなったからだ。

 小道は北に向かって、まっすぐに続いている。遠くの方に赤い鳥居が見える。はやる気持ちで小道を進むと、小さな鳥居が森の外れに立っていた。更に先に続いている。両側から大きな木が茂り、道は薄暗くなる。地面には、木漏れ日が落ちて光の模様となっている。やはり、現実だった!夢ではなかった! やがて、小道は常緑の木々に囲まれた丸い空き地のようなところで終わった。わずかに高くなった円地の周囲には、幾つもの小さなお稲荷さんが祀られていた。ここまで来る人はほとんどいないのだろう。ひっそりとして、不気味なほどの静寂が漂っている。やはり、ここは特別な聖地のようである。

 

 小屋に戻ってから、ネットで調べたら、どうやらここは「女化神社の奥の院」らしい。
女化神社の伝説では、命を助けられたキツネが、美しくて優しい女性になって(化けて)嫁となって恩返ししたが、ある日、うっかり昼寝していて尻尾を出してしまい、子供達にその正体を見破られて一緒に暮らせなくなってしまった。その母親のキツネが逃げ込んだ場所が、今日僕が訪れた場所だという。やはり、特別な場所だったのだ!
 いまでも、この周辺は丘陵が複雑に入り組み、深い林や田んぼが広がっている。昔は、キツネがたくさん住んでいたのだろう。いや、いまでもキツネがいてもおかしくない。もしかすると、この場所は、稲荷信仰から、里の人が、実物のキツネに好物を捧げていた場所かもしれない。人間と狐の接点の場所だったのかもしれない。

飯名神社の初巳祭

 何年かぶりで筑波山麓の臼井にある飯名神社の祭りへ行って来た。飯名神社は、『常陸国風土記』に記載のある古社で、筑波山周辺の神社では最も古いといわれている。社殿の裏側に回ると、「女石」といわれる磐座が鎮座している。その上には、気の毒なほど貧弱な「男石」がチョコンと突き立っている。また、筑波山から流れてくる谷川が社殿の西側を流れていて、岸に銭洗い場が設けられている。江戸時代に、この神社は弁財天信仰と結びついて、この「女石」を弁天様に見立て、地元では「飯名の弁天様」と親しまれている。弁天様といえば、その蛇神信仰に因んで初巳の日に神事を行う。今日が、その初巳の日に当たる。最近の多くの神社が、祭を休日にするのが多い中で、ちゃんと昔からの通り、旧暦の初巳の日に行うところが立派である。

 今回訪れて、少し寂しかった。以前は、雰囲気のある細い参道にずらりと屋台が並び、その前を参拝の人々が列をなして歩いていた。しかし、今日は屋台もまばらで、以前出ていた金物農具やザル屋さん、駄菓子屋、おもちゃ屋などが無くて、どういう訳か、三陸の昆布やワカメを売っている屋台がまばらにあるだけだった。境内のだるま市だけが、以前の通りだった。それに、恒例の餅撒き行事が中止されて袋に入れた餅を手渡したことも、賑わいを欠いた大きな理由の一つである。参拝者も、以前の半分以下のように思える。これが、新型コロナ流行のせいなのか、信仰している高齢者が少なくなっているからか、とても気になる。来年以降、昔のように賑わいが戻るのだろうか?

女石と男石

 そういえば、弁天様は、財産の神、技芸の神でもある。今日、お金を銭洗い場で洗えば金運がアップして、洗ったお金が数倍になって返ってくるという。僕には、この二つとも不足しているもの。
シマッタ!お金を洗うのも才能をお願いするのも忘れてきた。コリャダメダ(笑)!