僕のために、海とコーヒーを

 いつもの茨城町のトンカツ屋で昼食をとった後、さて、どこを回って戻ろうかと考えた。グーグルマップを見たら、ここから17分で鉾田市の玉田海岸に行けるとあった。ここは以前にも行った事がある。海岸の高台に洒落たリゾート風のキャンプ場がある。確か、付属してカフェもあった。食後のコーヒーが飲めるかもしれない。

 キャンプ場に着いたら閉まっていて誰もいない。仕方がないので、帰ろうとしたら、若者がやって来て、僕一人のためにコーヒーを淹れてくれるという。せっかく遠くから来たのに、申し訳なく思ったのだろう。もちろん、お願いした。


 
 誰もいないデッキで、太平洋を眺めながらホットコーヒーを飲んだ。日差しがあって、思ったより暖かい。
目を凝らすと、はるか遠くの水平線に何隻もの船が走っているのが見える。海の色は冷たそうで、波は荒れているが、こんな海でも釣りしている人がいる。何を狙っているのだろうか?

経筒の出土地

 

「ギータ文化館」の写真(30日付けブログ写真参照)を撮影していたら、その建物の前の丘に、[ 県指定考古資料「経筒(石櫃付き)」出土地 ] の白杭が立っていた。今まで気が付かなかったのは、土手の草に隠れていたからだろう。石岡市のホームページを見たら、花崗岩をくり抜いてつくった櫃の中に経典を入れた金属製の筒を収めて、塚を築いて埋納したものとあった。このように塚を築いて土中に経典を納める思想は、平安時代以降、特に鎌倉・室町時代に、全国各地で盛んに行われた。それは、当時流行していた末法の時代に備えて、経典を地中に埋めて仏の教えを保存しようと考えたのである。加えて極楽往生・現世利益を祈願、供養する意味もあった。
 ここで出土した経筒にも、表面に大永3年(1523) 甲州高屋住道善・小聖善貞と刻印されている。今の山梨県に住んでいた二人の聖が、全国を歩き巡ってこの地に経筒を納めたことが判る。

 それにしても、どうしてこんなところに塚が築かれたのか疑問である。今でこそギター文化館や家が建っているものの、昔は、人里離れた寂しい丘の上だった思われる。しかし、考えてみると、この道の東は国分寺や国分尼寺があった常陸国国府(石岡)へ続いているし、西はすぐ近くに瓦塚の瓦窯跡がある。ここで焼かれた瓦は国分寺の造営に使用された。さらに、板敷峠や一本杉峠を超えれば下野国国府や東山道にも続いている。しかも、ずっと台地上を通る道である。案外、この道は、焼いた瓦を運んだ奈良時代から、その後まで東西を結ぶ重要な道だったのかもしれない。散歩しながら、いろいろ想像すると見慣れた風景もまた違って見える。

石岡市ホームページより

頑張れ!ギター文化館

 昼食後に、久しぶりに、八郷の『ギター文化館』に行った。そこの「くるみコーヒー」のマスターといろいろ話した。この時期のこと、話題はどうしてもコロナ禍になる。「ギター文化館」の運営母体である東京労音も、新型コロナによる大打撃を受けてたいへん厳しい運営状況下に置かれており、その影響で「ギター文化館」も、苦しい運営状況となっているそうだ。このまま、手をこまねいていてはいけないので、これから内外に広く支援を呼びかけていくという。

 八郷の『ギター文化館』は、1992年(平成4年)に開館した。開館以来、30年間。「ギター文化館」は、ギターを中心にした音楽文化の拠点として、国内外の一流の演奏家によるコンサートやギター愛好家の交流の場として、若手演奏家の育成支援、また地域の子供達への情操教育などの活動を展開してきた。このような拠点は、全国的にも非常に稀な存在であり、文化施設の貧弱な石岡市にとっても貴重な施設である。

  僕も、初めて八郷に来たとき、(こんな田舎に)このような場所があるのにとても驚いた。木造コンサートホールの響きは素晴らしかったし、窓から眺められる難台山の山々は美しかった。まるで、ヨーロッパの田舎のようにも思えた。以来、ここで演奏が聴けることの喜びを何度も味わった。「ギター文化館」の存在は、僕にとって八郷の誇りであり、自慢だった。


 是非とも、これからいつまでも、事業を継続して欲しい!もっと、もっと多くの人を集めて積極的に活動して欲しい!そのために自分ができる事があるのかを考えながらコーヒーを飲んだ。

『ギター文化館』のサイト : https://guitar-bunkakan.com/wp/

ルリビタキとの再会

 何という偶然だろうか? 『えんじゅ』を終えて小屋に戻ったら、近くの足元に何かが飛び込んで来た。グッ グーというような低い鳴き声が聞こえる。カエルのようだが冬眠から目覚めるのが早すぎる。目で追ったら、庭のドイツトウヒの下枝に止まっているルリビタキを見つけた。しかも、ブルーの背とオレンジの腹が鮮やかなオスの個体だ。今年、初めての出会いに思わず、「ヤァー!久しぶりだね」と声をあげてしまった。

 小屋に入って、何気なく Facebook をクリックしたら、真っ先の画面に「過去の思い出」として3年前の投稿記事と写真が表示された。日付けを見たら、2019年1月29日の投稿で「今日は何か良い事があるのかな?朝起きたら、窓の前にルリビタキが遊びにきた。綺麗な青い鳥だ。」とあった。まさか、同じルリビタキが、同じ日に訪れたとは思えないが不思議な偶然に驚いた。

ルリビタキ(2019-1-29)

 まだまだ、寒い日が続いているが、来週は立春である。明るい時間も長くなった。もう、小鳥たちは、もうすぐ春になるのを知っているのだろうか。このところ、様々な鳥のさえずりを耳にする。今朝は、隣の林からイカルの甘いさえずりが聞こえた。シジュウカラも鳴いていた。この寒さももう少しの我慢だ。ストーブの薪も、何とかこの冬は持ちそうだ。

冬のノマド・カフェ

 笠間で、レストランに入ろうとしたら、財布を忘れて来たのに気づいた。困った!そこでPayPayを使ってコンビニで弁当を買った。どこで食べようかと考えた末、いつもの北山公園にした。弁当は、「可でも不可でもなし」というところだったが、食後のコーヒーは美味かった。
 北山公園の新しく出来たキャンプ場に行ったが、誰もいない。テーブルはあるし、水もある。風除けに丁度いいカマドまである。目を上げると、冬枯れの雑木林が遠くまで続いている。小鳥の群れが、枝から枝へと鳴き交わしながら渡って行く。静かだ! 今まで、いろんなところで、NOMAD Cafe を開いて来たが、ここの環境は最高だ。

「そろそろお湯が沸いたようなので、ドリップを始めよう」・・・
・・・コーヒーを飲んでいて、フッと思った。
「僕は何と素晴らしいカフェで、何と贅沢な時間を過ごしていることか!」と。

中志筑の「どんと焼き」

 かすみがうら市の中志筑で行われた「どんと焼き」を見て来た。万葉集にも詠われている「師付の田井」の、その田んぼの真ん中で火が燃された。竹の櫓が高さ20mほどに組まれて、周囲にはたくさんの注連飾りや門松、お札、だるまなどが取り付けてある。祝詞の後、火をつけるのは地元の子供達の役目だ。このところの天気続きで、竹はカラカラに乾いていて、瞬く間に高く赤々と燃え上がった。燃える炎の勢いに驚いて、子供達はキャアキャア言いながら逃げる。

それ!火が付いたぞ。逃げろ!

 会場になった田んぼにはステージが設けられ、まずは地元の志筑小学校の子供達が校歌を歌った。148年の歴史ある志筑小学校が、この3月末で廃校になるという。「ありがとう志筑小」の横断幕も掲げられていた。もう、間も無くして、この校歌も歌われなくなるだろう。そう思うと聞いていてジーンと来るものがあった。他に、器楽演奏や祭囃子なども演奏された。横のテントでは、地元の女性たちによって、甘酒が振る舞われ、味噌田楽、おしるこ、豚汁、フライドポテトが、どれもが100円で売られていた。僕が食べたのは、このうち田楽とおしるこである。田楽は黒い田舎コンニャクだし、おしるこは小豆の味と香りがしっかりと出ていて美味しかった。会場からは、遠くに筑波山や志筑の山々を、近くの高台には志筑城址が望める。すぐ側には恋瀬川が流れている。この地での「どんと焼き」は、どこか懐かしさと祭りの楽しさを感じさせるものだった。

志筑小の子供達

 「どんと焼き」は、「左義長」をはじめ、各地で様々な名前で呼ばれている。起源は、平安時代の宮中行事とされているが、もっと素朴な庶民の火祭りのように思える。本来は小正月である1月15日頃に行われて、お正月に門松や注連飾りで迎えた歳神を炎と煙で見送るという意味を持っている。各地の風習をみると、この行事の主役は子供達のところが多い。子供達が松の内を過ぎると、家々を回って正月のお飾りを集めて回ったのだろう。今回の志筑の「どんと焼き」でも、点火という大役を担ったのは子供達だった。

この火にあたり、この火で焼いたお餅や団子を食べると。風邪も(コロナにも)ひかずに健康で過ごせるのだそうだ。その気になって、僕は餅を3個も焼いて食べてしまった。

センダンの実

 今頃の八郷を歩いていて、屋敷や畑の片隅で、すっかり葉を落としている木にたくさんの小さな果実が付いていたら、センダンかもしれない。今日も、冬の澄んだ青空を背景にして、庭の隅に立っていた。この木は、夏の葉もあまり密に繁らず涼しげな風情である。初夏には高貴な感じのする淡紫色の花を房状に咲かして美しい。

 しかし、この果実には強い毒性があるそうだ。人や家畜が食べると中毒して、ひどい時は死に至ることもあるらしい。しかし一方、漢方薬として、煎じて飲んで整腸や鎮痛薬としたり、回虫などの駆虫剤として使った。また、実をすり潰して塗りヒビやアカギレの治療もした。また、昔、打ち首を曝した獄門台はこの木で作ったという。そのため地方によっては忌み嫌って屋敷には植えない。なかなか民俗的にも面白い木である。

 この木のために、もっと美しい話をする。センダンの古名は、アフチ、オウチ(楝、樗)といい、この花は万葉集でもたくさん詠われている。清少納言も枕草子の中で「いとおかし」と表現している。そういえば、文部省唱歌の『夏は来ぬ』の中(4番)でも歌われているのを思い出した。日本人は、この花の上品な色彩と儚げ(はかなげ)な風情を好んだのだろう。


 ついでに言うと、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は、これとは別のビャクダン科のビャクダンのこと。

センダンの実

クリニックでNOMAD Cafe

 毎週、木曜日の午後につくば市の大角豆にある『せせらぎの森』クリニックでコーヒーを淹れている。ここは、在宅クリニックと訪問介護のセンターである。広い庭と雑木林、木造のかっこいい建物、居心地のいい室内・・・。どこか高原の別荘なようなところだ。
 つくづく、僕はここでコーヒーを淹れることが出来て良かったと思っている。スッタフたちは、いつも老いや死を身近くに感じて仕事をしている。常に張り詰めた緊張を持って、落胆と安堵の日々を過ごしている。一見、明るく屈託無い笑顔を見せているが、その心の奥には大変なストレスを秘めているのだろう。僕の淹れたコーヒーと取り留めの無い話が、少しでも彼女らのストレスを慰めるのに役立つなら、こんな嬉しいことはない。そう思うと、美味しいコーヒーを飲んでもらおうと力が入る。

 ここ『せせらぎの森』には、誰でも気軽に来て欲しい。家族や自分の介護を考えている人や健康について相談したい人はもちろん、単に僕が淹れたコーヒーが飲みたいだけの人も。

右奥の白い建物は『メモリーズ』

生飯台に来た鬼神衆

 昨年の夏、庭に「生飯台」を置いた。(生飯台とは何かは、以前FBにアップした下の記事を見て欲しい。)この上に食べ物を供えておくと、夜中に何者かが来て、朝になると無くなっている。はたして、どんな鬼神衆が来ているのか、長いこと判らなかった。・・・ ついに、その正体を掴んだ。ヒヨドリだ! まあ〜、ヒヨドリも生きものだから良しとしよう。でも、本当は魑魅魍魎や餓鬼衆などの怪しげな者たちか、せめて、エナガとかメジロとかのもっと可愛い小鳥たちに来て欲しかった。
 長いこと正体が判らなかったのは、ただ僕が朝寝坊だっただけ(笑)。

2021年7月9日の記事 
 庭のカツラの木の根元に『生飯台(さばだい)』がある。夕方、この石の上にほんの少しの食べ物を置いておく。そして、小さな声で「汝等鬼神衆 我今施汝供 此食遍十方 一切鬼神共」とつぶやく。意味は、「鬼神たちよ!いま私はあなた方に食事を供養する。この食事が普くすべての生きものたちに届かんことを」というもので、それは、目に見えない鬼神たちや、三界の万霊、そして自然界の小鳥や昆虫や動物たちに食べ物を分け与えて供養しようとするものである。
 禅宗(曹洞宗)の修行道場では、食事の時に、自分に配膳されたご飯やおかずの中から、この「生飯の偈(さばのげ)」を唱えながら七粒のご飯を選り分けて、それを集めて生飯台の上に供えるのである。これは、ありとあらゆる一切の他者に食事を与えるという施しの心を表している。
 僕はこの禅の作法をとても美しく感じる。この施しの心が素晴らしいと思う。自分もやってみたくなったので、真似して生飯台を作ったのだ。いつも夕飯のごく一部をこの石の上に置く。すると、不思議なことに、朝起きてみるとすっかり無くなっている。夜中、僕が寝ている間に、鬼神たちや餓鬼衆、生きものたちがやってきて食べているのだろうか?いつか、無人カメラでも仕掛けておいて、一体、誰が食べているのか確かめたい。案外、我が小屋の「鬼神」は、ピーだったりして(笑)

勘十郎掘

 涸沼から鉾田市に向かって県道110号線を走っていたら、途中で「勘十郎堀跡」の看板が出ていた。僕は、こういう史跡の案内があると無視できない。早速、県道から外れて見てきた。畑の中に木が繁っている箇所があり、その中に南北に続いて深い堀が切ってあって、底に水が溜まっていた。これが「勘十郎堀跡」である。堀の規模は、幅24m、深さ20〜30mで、約2年間工事が進められ、延べ約130万人が工事に携わった。しかし、財政難や工事の難しさなどで完成には至らなかった。

 これまで水戸藩の回船は那珂湊から涸沼川を遡り涸沼湖岸の海老沢や網掛で荷揚げされ、陸路で霞ヶ浦まで運び、また船で江戸まで運んでいたのである。この陸路区間に運河を造り、ここを通過する船から通行税を取って藩の財政を好転させようという狙いがあった。そこで、三代目藩主 徳川綱條の時代、水戸藩は松波勘十郎に運河造りを命じたのである。計画は涸沼の海老沢から霞ヶ浦の北浦に注ぐ巴川(鉾田市紅葉)間の約10kmの区間であった。工事は、宝永4年(1707)に着工され、宝永9年(1709)まで続いた。一旦は完成したと藩に報告がされたものの実際は未完成で、人夫の賃金未払いで一揆は起こるは、崖崩れで死者は出るはで、散々だったようだ。勘十郎は捕らえられて獄死している。

 今、Googleマップで見ると、確かに涸沼と霞ヶ浦を繋ぐ運河さえあれば、危険を冒して鹿島灘や銚子沖を通過しなくても、東北からの物資を安全に江戸まで運べるように思える。しかも船から通行税を取り立てられる。きっと、昔の役人は現地もロクに調べないで、工事の大変さに思い至らず、空想論を卓上でぶち上げていたのだろう。僕と同じように(笑)。

勘十郎堀(茨城町)

温室の中の春

冷たい北風が容赦なく吹き付ける。園芸店の温室に逃げ込んだ。そこはもう春。原色の花々があちこちで咲いている。シクラメンや蘭の花たちは互いにお化粧や着飾った洋服を自慢し合っておしゃべりしているよう。瑞々しい葉の観葉植物が繁っている。葉の間からチラリと見える鮮やかな黄色は、レモンの果実だ。この娘(こ)たちを連れて帰りたいが、まだ僕の小屋には冬が居座っている。

歩いて坐禅に行く

 今日は泰寧寺で年が明けて初めての坐禅会がある。しかし、坂の上にある山小屋から道路が凍っていて車が出せない。仕方がないので、歩いて行くことにした。40分もすれば着くだろうと高を括っていたら、1時間以上もかかってしまった。恥ずかしいことに、若干遅刻してしまった。

 午後の柔らかな光が本堂に満ちて、優しい明るさに包まれる。昨日は、寂しいことがあったりして、一日中、暗い気持ちだったが、今日は違う。新春の坐禅会らしく、明るく澄んだ気持ちで坐れた。こんなに落ち着いた気持ちになれたのを心から喜んだ。

 終わったのは、午後5時近く。車で送ってくれるという申し出を断って、また、来た道を歩いて戻った。日没は過ぎたが、山の稜線の向こうの空には、まだ、バラ色の光が残っている。山々が黒いシルエットとなっている。雪が両側に残る田んぼ道をトボトボと歩いて小屋を目指した。時折、車が脇を通り過ぎる。赤いテールランプが闇の中に次第に遠のく。

 雪に冷やされた空気が肌を刺す。深呼吸すると肺に冷たい空気が流れ込む。すると背筋も気持ちもピンと伸びる。「凛とした」いう言葉の本来の意味はこういうのだろう。僕は、この冷たい空気も黄昏時も嫌いではない。心も身体も透明になれるように思えるからだ。

 山小屋までたどり着いたら、ピーが、暗闇の中で僕の帰りを待っていた。「ただいま」と言ったら、小さく「ピューィ」と鳴いた。
今日は良い一日だった。



小屋の道

昨日は、思いがけず大雪となった。山小屋の下の道はすっかり雪に覆われてしまった。これでは、ノーマルタイヤの僕の車では何処にも出かけられない。今日は1日中、小屋に籠っているしかないか。
筑波山はもう雪が消えてしまっている。いつもと変わらぬ姿で座っている。(午前10時30分)

冬の風鈴

 軒下の風鈴が鳴る。雪の日の夕刻、凛と張り詰めた空気を震わす。
音はしだいに広がり、やがて雪に吸い込まれて消える。

 風鈴の音が届いた範囲が浄化され清められる。この範囲に邪悪なものや災いは入り込めない。よく、お寺のお堂の四隅や仏塔に吊り下げられている青銅製の風鐸が起源である。平安時代や鎌倉時代には貴族の屋敷でも魔除けとして吊るした。この風鐸を小型化したのが風鈴である。

 僕は、この風鈴が好きだ。ふと、真夜中に目覚めて、不吉な思いに襲われそうになった時、暗闇の奥くから聞こえてくる風鈴のかすかな音色を耳にすると、静かな安堵感に満たされる。安らかな気持ちになって再び眠りにつくことができる。

 愛読している澤木興道禅師の本に、如浄禅師のこんな「風鈴の偈」が載っていた。

  渾身似口掛虚空 
  不問東西南北風
  一等為陀談般若
  滴丁東了滴丁東

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崎浜カキ化石床と横穴遺跡

 知らない田舎の細道をあてどなくウロウロするのが、僕の趣味の一つだ。そこが何処だか全く検討がつかなくて、迷った気分になればなるほどワクワクしてくる。やがて見知った風景のところに出た時の感じる安堵感と少しの落胆する気持ち、これもまた楽しみである。

 今日も、霞ヶ浦沿岸によくある微高地と谷間に広がる果樹園や麦畑の農道を走っていた。麦畑の緑の畝筋が、美しいカーブを描いて遠くまで続いている。急に下り坂になった。その先に、霞ヶ浦がキラキラと輝いている。湖岸近くの集落に出たようだ。確か、ここは知っている!かつて来たことがある。有名なカキ貝の化石層と横穴墓のある崎浜遺跡だ。化石のカキ殻層が5mぐらいの高さで露出している。その層がえぐられて、いくつもの横穴が開いている。

 今から約12〜13万年前、地球が温暖で筑波山麓まで海(古東京湾)だった頃、この地域には干潟が広がっていて、カキが高密度で生息していた。このカキ殻層は、その時に形成されたものである。その後、海が後退して露出した地層を、古代人はくり抜いて横穴を掘り、死者を葬った。この横穴は古代人のお墓である。作られたのは古墳時代の後期(約1300年前)だと推定されている。確かに、大きな古墳を作るより横に穴を掘る方が容易だ。
 大きな横穴には石仏が祀ってあった。近くには地蔵や石塔が何体もあった。昔から聖地だったのだろう。横穴を開けたら人骨が散らばっていたこともあったのかもしれない。そう考えて、改めて横穴を見たら、午後の陽に照らされたカキ殻が無数の骨に見えた(笑)。

これだから、あてのない散歩は楽しい。何と出会うか、まったく予想できない。

浜崎牡蠣化石床と横穴墓遺跡