小砂焼(こいさごやき)のコーヒーカップ

朝起きて、コーヒーを飲んでいたら、突然、手にしているカップの「故郷」に行ってみたくなった。栃木県那須郡那珂川町小砂(こいさご)である。馬頭温泉郷の先、街道の両側に小高い山が迫る集落である。ここは、今でこそ栃木県であるが、かつては水戸藩の領内であり、天保元年(1830)に、徳川斉昭によって、この地で良質な陶土が発見され、嘉永4年(1851)に小砂瀬戸に御用窯が築かれた。今日行った『藤田製陶所』の一族は、その頃に自家に窯を築き、現在まで連綿と陶器を作り続けている。

粘土工場と化粧煉瓦の庭

驚くのは、歴史ばかりではない。原料の陶土確保から粘土の精製、成型、焼成、販売までのほとんどを家族だけで行っている。陶土も、近くの山から掘り出している。外部の人が参入できないのは、この石英混じりの陶土を砕いて精製する設備が、藤田家しか無いからだろう。工場を見せてもらった。巨大な花崗岩でできた粉砕石臼や巨大な鉄製ドラムに玉石と陶土を一緒に入れて、ガラガラ回して細かくするボールミルという設備があった。これはアメリカ製で大正時代から使われているそうだ。登り窯は、東北大震災で崩れてしまったが、これらの粘土工場の機械は無事で、現在でも立派に働いているという。薄暗い空間に、厚く土埃が積もった巨大な機械は、実に格好良く、独特な雰囲気を醸し出していた。主人の奥さんは、これらの機械が壊れていたら「やきもの」はやめていたと言っていた。藤田家の宝であり誇りであることがよくわかった。


この小砂焼には華麗な歴史がある。安政3年(1856)に初代の齋藤栄三郎(後の藤田半平)が制作した「四方壺」のうち、松の絵柄はフェノロサの収集品となり現在はボストン美術館に、また梅の絵柄は東京国立博物館に収蔵されている。明治29年には、全国で三番目に「大山田工業補習学校」が設立され、多くの陶工を養成した。大正8年(1919)には「関東化粧煉瓦株式会社」が大坂に次いで設立され、車道用煉瓦を製造する東日本で唯一の会社となった。当時は100人を超える従業員を擁していたという。現在の粘土工場の各種の設備は、煉瓦工場から引き継いだものである。また藤田家の庭一面(写真)に敷き詰められているレンガは当時の製品である。その化粧煉瓦会社も昭和2年(1927)に解散し、跡地は小砂小中学校になった。しかし、その学校も現在では廃校になっている。

奥のタンクのようなのがボールミル

小砂焼のコーヒーカップは、一見、古臭くて無骨である。しかし、石英混じりの陶土を高温で焼成しているからか、いかにも硬くて丈夫そうである。落としても割れそうにない。半磁器と言ってもいいだろう。いわゆる「作家もの」ではない。「土地もの」である。これで、濃くて苦いコーヒーを、ちびりちびり飲んでいると次第に愛着が湧いてくる。美しい山里で、家族が細々と作り続けてきた味がする。

今日買ってきたのは右端の赤いカップ

八郷盆地に戻ってきたら、物凄い雨だった。今夜、新しいカップで飲むのが楽しみだ!

陶土

 

滝台古墳

このところ、あること(いつか明かします)に夢中になっていたので、投稿をサボっていた。

昨日、小美玉市の霞ヶ浦湖岸周辺を歩いた。玉里地区である。玉里には幾つもの古墳があって、その中でも規模の大きい「滝台古墳」を歩いた。6世紀中葉のものだという。この古墳は湖北側の高台に位置しており、周囲は雑木林と畑で囲まれ人家は稀だ。訪れる人はほとんどいない。静かだ。古墳からは木立の間から霞ヶ浦が臨める。一人、木漏れ日を踏みながら遊歩道を進んで行くったら、突然、先方に人影が現れた。おじいさんである。彼は手にゴザと枕を抱えている。挨拶したら、ここは気持ちがいい所なので、毎日昼寝をしているという。手製のハンモックが吊るして合った。僕も使わせてもらって、横になったら実に気持ちがいい。湖からの風が吹き抜ける、横を向くと、湖面の先に志筑の山々、そしてその先に筑波山が見える。彼は、ここにいるとこの世の憂さを忘れると言っていたが、その気持ちが良くわかる。いつでも、このハンモックを使っても良いとの許しをもらったので、これから度々通うことにする。

次は、近くの古民家「旧小松家住宅」に寄った。次の投稿に続く。

 

出島、長福寺の椎

かすみがうら市の出島地区は興味あるところだ。霞ヶ浦に突き出た半島のような地形である。霞ヶ浦大橋が出来るまでは、外からの影響の少ない地域だったかもしれない。そのために、ここには古くからの文化や民俗や信仰が残っているように思える。
今日は、その最深部といえる下軽部にある長福寺の椎の巨木を見に行った。この辺の特色であるなだらかな凹凸の地形が広かっている。低地は水田であり、微高地は屋敷林と雑木林。その中に隠れるようにして畑と農家が点在している。無住の長福寺は、その一角にひっそりと佇んでいる。この長福寺はかなりの古刹だったようだ。説明板によると「真言宗豊山派の寺で、かつては十万石の格式を供え、南大門を有し、本堂は間口十八間、奥行き十間、九尺の縁廻し、総けやきの荘厳な寺院だった」が、度々の火災によって、現在昔を偲べるのは宝篋印塔と山門、そして椎の木ばかりになったという。

誰でも、椎を見ようとすると必ず足を止めるだろう。怪異ともいえる椎の姿に恐れをなすに違いない。高さは十数メートルとそれほどでもないが、まっ黒い巨大な幹(胴回り7m)の姿の異様さに驚かされる。長い歴史の怨念や祈念が樹木の形となっているかのようだ。この椎は樹齢七百年とも推定されるが、長福寺の盛衰をじっと見てきたのだろう。出島の出来事をじっと聞いてきたのだろう。

この廃寺同然の長福寺を、一層寂しく不気味にしているのは、小さな祠、石仏、石塔などのいたるところに貼られている何百枚ものお札である。薄暗い、椎の巨木の前の小さなお宮にも、ベッタリと貼られていた。由緒ありげな宝篋印塔にも貼られていた。僕は、このような光景を他では見たことがない。この土地の風習なのだろうか。

突然、一陣の風に吹き抜けて行った。一斉にお札がヒラヒラとたなびいた。椎の葉がざわついた。

 

 

蓮田の中のカフェ

お盆が近いからではないが、以前のブログにも書いたように、僕は蓮(ハス)という植物が好きだ。霞ヶ浦の湖岸道路を走っていて、見渡す限りの蓮田の中に、埋もれるようにして一軒の家があるのを見つけた。壁には、「珈琲」の文字が書いてある。蓮も、コーヒーも、そして一軒家も好きな僕は、このようなカフェに強く惹きつけられる。寄らないわけにはいかない。店に入ったら、客は僕一人だけ。蓮田が臨める一番いい席に座ってコーヒーを飲んだ。

風が、深い緑の大きなハスの葉を揺らす。時々、白い葉裏が見える。もう、花の最盛期は過ぎたのだろうか、咲いているのは幾つも無かった。それを気遣ってくれているのか、店内には朝切り取ってきたピンクと白の花が活けてあった。真っ青な夏空に積乱雲がゆったりと流れている。

風で揺れるハスの群れを眺めているうちに、次第にゆったりとした気分になって、いつの間にか居眠りしてしまった。残念ながら、極楽浄土に行った夢は見なかったが・・・・・。

 

鹿島海軍航空隊跡を訪ねて

前から、この建物が何なのか気になっていた。ツタの絡まった古風な建造物。明るい霞ヶ浦の湖畔にあるのに、どことなく暗い影がある。今回、ここは「鹿島海軍航空隊」の跡地で、ツタの絡まった重厚な建造物は、その本庁舎だったと知った。この鹿島海軍航空隊は、1938年(昭和13年)に水上機の実習訓練施設として発足し、終戦とともに役割を終えた。その後は、1947年から1997年まで、病院としても使われていた。この暗さは、戦争遺跡であり、病院跡からくるものだろう。現在では、半分近くが国立環境研究所の研究施設となっているが、これだけの規模で戦争遺跡が残されているのは、全国でも稀だという。
それが、先月から美浦村の「大山湖畔公園」の一部として公開された。今まで、立ち入り禁止になっていた構内に入って見学できる。例の謎の建物の内部まで入れるという。そこで、長い間の謎を解こうと思って、早速、昨日訪れた。

当時の「自動車車庫」は、赤茶色に錆びたトタンと鉄骨で組み立てられたガランとした空間となっていて、その中が見学受付所と週末カフェがある。もちろん、冷房などは無い。工場用の扇風機に吹かれながら、地元のおじさんがやっているカフェ(?)で「冷やしうどん」と「おにぎり」を食べた。いかにも廃墟見学にふさわしい素朴なメニューだ。

午後2時から、本庁舎のガイドツワーがあるという。まだ時間がある。それまでの間、構内の各種の遺構を見て回ることにした。
生い茂った夏草の上を湖からの風が渡る。その遠くに朽ちかけた建物が見えた。青い空に真っ白な積乱雲、深い夏草の緑の海の上に赤茶けた建物。ところどころ破壊されて穴の空いた建物の壁には、ツタやクズの蔓が這い上がっている。過ぎ去った時間を感じさせる。

まず、ツタが巻きついた高い煙突のある「気缶場跡(ボイラー室)」に入った。厚く塵が積もった薄暗い中から、巨大なレンガ作りの本体と錆びた重厚な鋳物のボイラーの蓋が浮かび上がった。ランカシャーボイラーというらしい。これで基地全体の暖房をまかなっていたという。

次は、「自力発電所跡」だ。草原の中にほとんど鉄骨だけとなった建屋が現れた。不謹慎な表現だが、剥き出しの鉄骨構造物は美しい。中に足を踏み入れた。発電機や動力機械の土台となっていた分厚いコンクリート床を踏みしめた。いたるところに穴があって水が溜まっている。大きな陶器の碍子が転がっている。窓と天井はほとんどが抜け落ちて、その間から青空に浮かぶ積乱雲が見える。梁の鉄骨は赤黒く錆びて、それに緑の植物が巻きついている。悲しさを秘めた美しさだ。昔、映画で見たことがある人類が滅亡した後の世界を思い出した。

いよいよ、午後からガイドの案内で、「本庁舎跡」に入った。ここは、コンクリー製だったので、現在まで残っていたのだ。石とコンクリートを多用した重厚な作りが海軍の建物に多いそうだ。灯もほとんど無い薄暗い廊下を歩いて、当時の司令室や会議室、図書室などを見て回った。分厚いテーブルも当時のまま置いてある。今から約80年前、このテーブルを囲んで、どんな人たちが何を語っていたのだろうか。どんな軍靴の音が、この石の階段に響いていたのだろうか。

 

最後に、兵士たちの洗濯物干し場と風呂場の遺構を見たときは、彼らの平凡な日常生活を発見したようで、やっと明るい気持ちになれた。

「夏草や兵どもが夢の跡」    芭蕉

 

夏の海を見に

朝からすっかり晴れて暑い。こんな日は海だ! 鉾田の玉田海岸へ海を見に行った。月に一度は海を眺めて波の音を聞かないと心身の調子が悪くなる(笑)。

海岸近くの高台に登ると目の前に太平洋が広がる。波は静かで、水平線近くを走る船が小さな点のように見える。止まっているかのようだ。白とオレンジの大きな船は、北海道から戻ってきたフェリー船だろう。サーフィンを楽しんでいる人もいる。砂浜では、子供達が波と遊んでいる。時々、「キャー、キャー」という甲高い声が聞こえる。

昨年、キャンプ場に開設されたカフェに入った。三方がガラス張りで、座ったままで太平洋が眺められる。野外には、いくつもの白いパラソルが林立して、その下の席でもお茶が飲める。茨城の海岸には、場違いを感じるほど「オシャレ」である。若いカップルやグループが、冷たい飲みものを片手におしゃべりしている。僕はあまり美味しくないコーヒーを、チビリチビリと飲みながら、時折、海の方から吹く風を楽しんでいた。その気持ちの良いこと!開放感に満ちていること!いつまでも席を立つ気にはなれなかった。

 

 

『山桜』直売所

笠間から御前山に向かって、ほとんど山の中を走る「ビーフライン」がある。交通量も信号も少ない。深い緑の山中を、ゆったりとしたアップダウンとカーブが続く。今日のような青空の日に、(ある程度の)スピードで走り抜けると実に気持ちがいい。その途中、少し休憩したくなった頃に、城里町の『山桜』直売所が突然現れる。うまい場所にあるものだ。つい誰でも、寄ってみたくなってしまう。今日も、多くの客で賑わっていた。車も多いが、たくさんのバイクが集まっていた。中高年ライダーたちの集合場所のようだ。野外のテーブルに車座になって、団子を齧りながら情報交換に余念がない。

『山桜』直売所

僕も『ビーフライン』を走ると、必ず、この直売所を訪れる。画一的な「道の駅」などよりずっと面白い。併設されている蕎麦屋が美味しいとの評判だが、僕の興味は軒下の「生きもの」売り場である。地元の人が展示販売しているのだと思うが、行く度に内容が変わっている。ある時はコゴミやヤマユリの株だったり、野生の川魚や昆虫の鉢だったりする。メダカはいつでも置いてあるが、タナゴやライギョの稚魚だったりクチボソやシマドジョウだったりとする。僕の水槽で飼育できるような小魚があったら買って帰ろうと思って訪れたのだが、今日、売っていたのはウナギであった。それも一匹1000円の小さいのから2700円もする大きなものまでがビニール袋の底で丸まっていた。ウナギでは買うわけにはいかない。いくら土用の丑の日が近いといえ、自分でさばいて蒲焼きにする勇気はない。僕の小さな水槽では入りきらない。眺めただけで、次の目的地の清音寺に向かった。

ウナギ

隠れ里のような

国道50号線を岩瀬から笠間に向かって走っていると、立ちはだかるように道路の前方に山塊が現れる。国道と水戸線の線路は、その南側山麓を巻くように通っている。この山塊の中がどんな所なのか知る人は意外と少ないのではないだろうか。中に入るには、北側からの道路が一本だけ通じてるのみで、他に峠越えの山道があるにはあるが、今ではほとんど消えかかっている。2年前、僕はGoogleマップで空から見て大変興味が湧いて、それ以来、季節ごとに何度か訪れている。

集落へ入る道路

ここは桜川市の東端で、山の向こうは笠間市である。周囲を、標高三、四百メートルの山で囲まれた、極小さな盆地、むしろ凹地と言う方がいいかもしれない。中央が平坦になっていて、田んぼが谷川沿いに連なっている。その間に、旧家らしい大きな長屋門の農家が点在している。昔は4軒だけだったが、現在は8軒に増えたそうだ。このような外部から隔絶したような所でひっそりと暮らしているのが気になって聞いてみたら、祖先は加賀から来たという。昔、遠い昔、何か歴史の出来事があって、遥か遠くからこの地に来て百姓となったのだろう。そして、何百年もの時間が過ぎた。

高台から見渡すと美しい! 静かだ! 聞こえるのは小鳥の鳴き声だけ。
山里全体が緑一色に埋もれている。折からの夏の日差しが白壁を照らしている。

こんな隠れ里のような里が、岩瀬や笠間の街並みの近く、激しく車の行き交う50号線のすぐ近くにあることが、奇跡のような気がする。

 

マタタビの季節

笠間からの帰り道、道祖神峠を越えて八郷盆地に入った。峠道の両側の林には、マタタビが繁っているところが何箇所もあった。葉の半分ほど白くなっている蔓が、木立のかなりの高さまで登っている。今の季節、葉が白くなっているからマタタビだと容易に判るが、この季節以外だと見つけるのが難しい。もうしばらくすると、この白い部分も通常の緑に戻ってしまう。

車を止めて近づいたら、葉の陰に、白い小さな花が咲いるのを見つけた。今の開花の時期だけ葉っぱが白くなるのは、花粉を運んでくれる昆虫たちに、「この奥に蜜のでる花が咲いているよ」、と知らせているのだろう。葉の下で隠れるように咲いているのは、梅雨の雨で濡れるのを避けているのだろうか。うまくできた仕組みだ。

よく見ると、奥に白い花が咲いている

小野越の北向観音堂

つくばから不動峠を越えて八郷に戻った。途中、「北向観音堂」の標識があったので寄ってみた。ここを訪れるのは何年かぶりだ。久しぶりの北向観音堂は、深い木々に隠れるように、ひっそりと佇んでいた。苔むした石段が歴史を感じさせる。

北向観音堂は、昔、仏生寺にあった「龍光院」の別院で、伝説では、天平年間(8世紀)に行基が常陸国府を訪れ、夜、この方向に瑞光(めでたい光)を見たので、仏像を彫らせ堂宇を建て安置したという。また、山の反対側の小野村に、年老いて病気に罹った小野小町が逗留した際に、峠を越えて、この北向観音にお参りに来たら、たちまち病が全快して若かった頃のような美貌に戻ったという。この伝説によるためか、昔は関東各地から、主に女性の参詣者が絶えなかったという。朱のお堂も小ぶりである。内部の厨子には細かな彫り物が絵付けされていて、天井絵も描かれている。今でこそ色あせているが、全体が優美な作りである。いかにも女性のための祈願所という趣である。

今から二十年以上前に僕が初めて訪れた当時は、お堂が腐って屋根が落ちかけていた。雨水が中を濡らすほどだった。扉に張り紙があったので読んだら、「修復したいが、近隣の農家14件ではどうにもなりません。どうか、ご協力を」と書いてあった。そこで、職場の女子職員に「女性のための仏」だから協力をしなさいと言って、(半強制的に)一口500円で6人から寄進してもらった。その後、丁寧な令状が届いたが、そのまま数年忘れていた。ところが、八郷に住むようになってから、ある日、何気なく訪れてとても驚いた。観音堂は、綺麗に修理されて屋根も新しくなっていたし、仏像も修復されていた。しかし、お堂の側面に貼られた寄進者名簿の最末席に僕の名前がはっきりと書かれているではないか!金三千円也は僕だけ。先日、訪れたが、まだ、寄進者名簿の板は貼られたままだった。二十年間以上も恥を晒し続けているのだ。これが、観音堂へ僕の足を遠ざけていた理由である。あの時、少しでも僕が加えておけば良かったと反省したが、もう遅い。

(追記)お堂に祀られている観音像を修復した仏師から聞いた話である。もともと、ここの本尊は「秘仏」で、見ると目が潰れるとか言って、村人も目にする事はなかった。毎年、それが収納されている箱を振っては、重みを感じ音を聞いて存在するのを確認していたそうだ。今回の修復に当たって、秘仏の箱を開けてみたら、石ころが入っていただけだった。いつ、誰が盗んで石ころにすり替えたのかも判らない。
秘仏の場合、参詣者のために「御前立尊」と言って代わりの仏像が用意されていることが多い。今回修理したのは、その「御前立尊」だったのである。しかし、この代役の仏像も鎌倉時代のもので見事なものだったそうだ。

 

 

ホタルの季節

友人夫妻が、ホタルを見たいというので下見に行った。毎日、僕が散歩するコースの脇だ。午後7時45分、あたりはすっかり闇に包まれた。遠くの地平線だけが、ほんのりと明るい。
いた!イタ! 水路の上を数匹のゲンジボタルが飛んでいる。まだ、それ程ではないが、ゆったりと明るい光を発しながら堀の上を飛んでいる。これまで毎年見ていた小川がコンクリートの三面ばりになって蛍がいなくなったのでガッカリしていたが、今回、その近くで新たな場所を見つけた。
八郷のゲンジボタルは、今頃から中旬までの間に多く出現して、それ以降は小さくて忙しない飛び方をするヘイケボタルと切り替わる。ホタルを鑑賞するならゲンジボタル。そして、時期なら今だ!

ゲンジボタルの光は強い。光の点滅も飛び方もゆったりとしている。暗闇で、突然、一匹のゲンジボタルと出会うとドキッとする。誰かの「魂」と出会ったかのように・・・。

 

時間を遡る散歩ー高部宿と栃原金山ー

どこかで近くで昼食をと思い小屋を出たが、つい、いつもの悪弊が出てしまった。天気も晴れ間が見えてきた。燃料も時間もたっぷりある。もう少し先まで行ってみようと、ついに城里を超え、久慈川を渡り、とうとう常陸大宮市の美和まで来てしまった。ここまで来た目的は、「高部」の街並みを訪れてみたかったからだ。以前、栃木県の那須烏山から緒川に沿って走ったとき、街道沿いに古風な趣のある家並みを見たことがある。今日は、それをじっくり見学しようと車を走らせたのだ。県道29号線沿いにあるその古風な宿場町は「高部」である。ここには、鎌倉時代末期から「高部館」と「高部向館」の二つの山城が築かれ、中世の戦国時代には佐竹氏の重要な軍事拠点となったところである。いまでも、町の外れにある小山には当時の遺構が残っている。今回訪れたのは、街道沿いの街並みだけだったが、次回は山城遺構を攻めてみたい。

麓の街道を歩いていると、いたるところに趣のある建物が残っている。崩れかかった蔵や、明治の建物だろうか風情のある洋館もある。蔦が巻きついている大きな建物は旅籠だったのだろうか? 今では、通る車もほとんど無いが、かつては、重要な街道として旅人や行商人で賑わっていたのだろうか。街道の橋からは、河鹿蛙の涼しげな鳴き声が聞こえる。

散歩していて、ここ程、時間の流れを感じさせるところは少ない。

平塚家見世蔵(左)と町並み
大森家
国松家旧郵便局
岡山家喜雨亭
間宮家住宅
平塚家の時計塔
高部山城跡

雰囲気のある高部の町並みを堪能した後、もう少し先に有名な「栃原金山跡」があることを知って、ついでに見学することにした。山道のような「大子美和線」を走って、鄙びた集落にある金山跡に行った。入口に看板があるが、坑道らしいところは見つからない。ちょうど歩いてきた老人に聞いたら、坑道はこの1キロ先の山中だという。いろいろ昔の話をしてくれた。今から、二十年ぐらい前までは、砂金探しの観光客がバスで訪れて賑わったそうだ。それで、「おみやげ」の看板をかけた崩れ掛かった建物の謎が解けた。本当に金が見つかるのかと聞いたら、自分の親父などは荒縄で編んだムシロの上に谷川の砂と水を流して、ムシロの目にひっ掛かった砂金を採ったという。この「栃原金山」は金の含有量が非常に多く、本州でただ一つの現役の金山だったが、現在は休止している。少し長くなるが、金山を所有する東洋金属鉱業(株)のホームページから引用してみよう。

< 栃原金山は、約600年前発見され江戸時代に佐竹藩の隠れ金山として採掘されていましたが 佐竹の殿様が秋田に国替えとなり坑口を塞ぎ鉱山技師共々秋田に行ってしまい眠ったままにな っていました。
昭和62年東洋金属鉱業が鉱業権を得て金山として再開しましたが平成9年ごろから金の 相場が低迷しており、金鉱石の採鉱のみを細々と行っていて採掘した鉱石を坑道内に 袋詰めし貯鉱しており、選鉱場も休止しているとの事でしたがその後に坑道内で落盤が発生し現在は 観光金山も廃止状態で栃原金山は廃山状態になっています。
鉱床は白色の石英脈に黒い脈状に入っており江戸時代に採掘した下部を掘っており坑道は 3段になっています。>

地元のおじさんによると、現在でも山から流れる沢を探れば、もしかすると少しぐらいの砂金は見つかるかもと言っていた。金が高騰している現在、挑戦してみたらいかがでしょうか?(笑)

鉱山事務所及び付属のお土産店

 

ったままにな っていました。
昭和62年東洋金属鉱業が鉱業権を得て金山として再開しましたが平成9年ごろから金の 相場が低迷しており、金鉱石の採鉱のみを細々と行っていて採掘した鉱石を坑道内に 袋詰めし貯鉱しており、選鉱場も休止しているとの事でしたがその後に坑道内で落盤が発生し現在は 観光金山も廃止状態で栃原金山は廃山状態になっています。
鉱床は白色の石英脈に黒い脈状に入っており江戸時代に採

 

八郷の合戦場を歩いて

 車検で車が無い。天気も爽やかだし、運動を兼ねて徒歩でコンビニまで買い物に行くことにした。いつも通る舗装道路ではつまらないので、遠回りして峠を越えて行くことにした。この道は地元民だけが知っている道だ。
新緑に包まれた山裾の集落は美しい。どこまでも静かだ。平和そのものである。

 しかし、今から約五百年前には、写真正面の丘陵一帯で激しい戦いがあった。手這坂(てばいざか)合戦である。これは永禄12年11月(1569)に小田氏が太田資正のいる片野城に攻撃を仕掛けたが、片野救済に駆けつけた柿岡城の梶原政景と真壁城の真壁久幹の反撃にあって、小田氏は大敗して、本拠の小田城を放棄せざるをえず、土浦に敗走したのである。これが小田氏の滅亡の原因になったとも言われている。この合戦では両軍合わせて二千、三千人が戦い、多くの戦死者を出した。今でもこの合戦場の周辺の山中には、供養塔や石仏、五輪塔などが残っている。

 今から20年ほど前に、この山道を歩いていて、小さな土の山のようなものがあるのに気がついた。古墳しては小さすぎる。最近になって、近くの住職と話していてそれが何なのかを思い至った。もしかしたら「胴塚」かもしれないと。戦死者の首を刎ね、首検めする為に首だけを持ち帰って、残った胴体の部分を土中に埋めた場所である。今でも、掘れば何かが出て来るかもしれない。この辺一帯は、昼間でも人気の全く無い寂しい場所である。とても、夜など歩く気になれない。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・・」

「胴塚」かも

 暗く、寂しい山道をずうと歩いてきたので、再び、明るい光で輝く里に出てホッとした。いままで歩いてきた一帯を振り返ったら、合戦場の上に筑波山が堂々とそびえていた。八郷は奥深い!

 

街の景色

何でもない、ごく普通の日常風景を写真に撮るのは難しい!

街の小さな公園にて
「椎ノ木精米所」名前が良い!
仲良しの猫、散歩から帰ったおばあちゃんを出迎える

岩間町の散歩

 笠間市のJR岩間駅に行った。ここは思い出深いところだ。まだ、僕がまだ20代だった頃(50年前)、幼い息子と電車に乗って、この駅に降り立った。当時柏に住んでいたのだが、休日に東京方面に向かう気がしなくて、下り電車に乗ってこの駅まで来たのだ。幼い息子が木造の小さな駅舎の改札口で写っている写真が今でもある。思い出すと、甘酸っぱい懐かしい気持ちになる。それに、駅から歩いて山に登れるのは、常磐線ではこの岩間駅が最も近い。

JR岩間駅

 それが、今日行って見ると、駅舎はすっかり変わっていた。近代的な2階建てのコンクリート作りになっている。駅周辺の店舗や家並みもすっかり変わっていた。駅前の食堂も本屋も今では無いし、旅館もお洒落なカフェになっていた。でも、何処となく町の雰囲気は変わっていない。静かなゆったりとした時間が、街全体に流れている。駅からのメインとなる道路の先に愛宕山が鎮座している。まるで、愛宕神社の参道のようである。僕は、この雰囲気が好きである。一層感傷的な気分を増幅させる。

正面が愛宕山

 歩いて、喉が渇いたので、昔、旅館だった『橋本焙煎所』に入った。ここは、つい先日、開店したばかりだ。まだ、時間が早くて閉まっていたが、ちょうど居合わせたオーナーの奥さんと息子が、僕のために店を開けてくれた。店内は、どこもかしこも真新しく、デザインが素晴らしい。新品の焙煎機とピカピカのエスプレッソマシンが置いてある。イケメンの息子が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、3人であれこれお喋りを楽しんだ。僕の好きな落ち着いた街に、カッコいいカフェとコーヒー豆店が出現したのがたまらなく嬉しい!もう少しすればエスプレッソも飲める!

橋本焙煎所