旧小松家住宅と「さんべや」

滝台古墳の次に、県指定文化財の「旧小松家住宅」を見学した。ここを訪れる人は一日に2、3人だから、当然見学者は僕一人だ。小松家住宅は、江戸時代中期の庄屋格の建物である。「曲り屋」で、土間が大きく曲がる「土間曲がり」であり、さらに馬屋がもう一つ曲がった「二つの曲がり」を持つ複雑な形をしている。家の中のどこもかも煤けて茶黒い。太い柱、曲がりくねった天井の梁が2百年の歴史を感じさせる。しかし、板張りの廊下や囲炉裏のある居間といい、掃除が行き届いていて黒光りしている。家を保護するために、毎日囲炉裏で火を焚いているそうだ。各部屋を見せてもらったが、その中で驚いたのは「さんべや (産部屋)」である。北側の奥まったところに、床に竹が敷かれた小部屋があった。実物を見るのは初めてだ。何か特別な部屋の感じがして、足を踏み入れるのは憚れた。何でも、元の屋敷を解体したところ床下に土盛りがあり、「さんべや」だと判ったという。

はた織り機

お産をするとは、日常とは異なった特別な行為で、各地に様々な習慣が残っている。僕が知っているのは、いわゆる「産屋(うぶや)」で、母屋と離れたところに仮小屋を建て、そこに女性がこもって出産するというものである。「隔離・別火」を特徴している。それは出産が不浄であり穢れた行為であるからというものから、「忌の」生活により神の加護のもとに子どもを産むという神聖な行為であるなどの様々な解釈がなされている。それが、この住居では同じ屋根の下、生活の隣に設けられている。こんなのは聞いたことも読んだこともない。

これだから、近所の散歩でも何らかの発見があり、面白い。

なんど(さんべや)

 

 

中志筑の「どんと焼き」

 かすみがうら市の中志筑で行われた「どんと焼き」を見て来た。万葉集にも詠われている「師付の田井」の、その田んぼの真ん中で火が燃された。竹の櫓が高さ20mほどに組まれて、周囲にはたくさんの注連飾りや門松、お札、だるまなどが取り付けてある。祝詞の後、火をつけるのは地元の子供達の役目だ。このところの天気続きで、竹はカラカラに乾いていて、瞬く間に高く赤々と燃え上がった。燃える炎の勢いに驚いて、子供達はキャアキャア言いながら逃げる。

それ!火が付いたぞ。逃げろ!

 会場になった田んぼにはステージが設けられ、まずは地元の志筑小学校の子供達が校歌を歌った。148年の歴史ある志筑小学校が、この3月末で廃校になるという。「ありがとう志筑小」の横断幕も掲げられていた。もう、間も無くして、この校歌も歌われなくなるだろう。そう思うと聞いていてジーンと来るものがあった。他に、器楽演奏や祭囃子なども演奏された。横のテントでは、地元の女性たちによって、甘酒が振る舞われ、味噌田楽、おしるこ、豚汁、フライドポテトが、どれもが100円で売られていた。僕が食べたのは、このうち田楽とおしるこである。田楽は黒い田舎コンニャクだし、おしるこは小豆の味と香りがしっかりと出ていて美味しかった。会場からは、遠くに筑波山や志筑の山々を、近くの高台には志筑城址が望める。すぐ側には恋瀬川が流れている。この地での「どんと焼き」は、どこか懐かしさと祭りの楽しさを感じさせるものだった。

志筑小の子供達

 「どんと焼き」は、「左義長」をはじめ、各地で様々な名前で呼ばれている。起源は、平安時代の宮中行事とされているが、もっと素朴な庶民の火祭りのように思える。本来は小正月である1月15日頃に行われて、お正月に門松や注連飾りで迎えた歳神を炎と煙で見送るという意味を持っている。各地の風習をみると、この行事の主役は子供達のところが多い。子供達が松の内を過ぎると、家々を回って正月のお飾りを集めて回ったのだろう。今回の志筑の「どんと焼き」でも、点火という大役を担ったのは子供達だった。

この火にあたり、この火で焼いたお餅や団子を食べると。風邪も(コロナにも)ひかずに健康で過ごせるのだそうだ。その気になって、僕は餅を3個も焼いて食べてしまった。