木の話

枝垂れ桜

ブログに書いた宍戸の「光明寺」の枝垂れ桜が、山小屋の桜の「母親」だというのには、次のような経緯がある。

 今から、二十年近く前のこと。当時、私は休日になると常磐線や水戸線の駅を降りて、そこを起点にして周辺を歩き回っていた。当時は自動車免許を持っていなかった。

 春の午後、笠間駅から宍戸駅に向かって歩いた。夕闇が迫って、次第にあたりは薄暗くなってきた。北山公園の暗い林も切れて、遠くの方に人家や街灯の明かりが見えてきたのでホッとした。やっと人里に出たと安堵した。その時である。道のずうっと先の一角が、ぼうっと仄かに青白く浮かんでいるように思えた。何だろうかと不思議に思って早足で近づいた。この辺りは大きな寺が連なっていくつもある。薄闇の中に白く浮かんで見えたのは、光明寺境内の桜だった。ひっそりとした寺の境内に桜の古木が咲いている。それも樹齢何百年かの枝垂れ桜だった。年老いた幹が、影絵のように夜空に向かって突き出ている。それでも、あちこちに花の塊をつけている。

 夜の桜の神秘さに打たれた僕は、どうしても昼間の桜の古木が見たくなった。そして、翌日の朝、また寺を訪ねた。それは見事なエドヒガン系の枝垂れ桜の老木だった。樹齢は3百年は経ているだろう。2、3の大枝が枯れて折れ、脱落している。年老いて痛々しい感じだったが、それでも赤みのある可憐な花をたくさん咲かせていた。しばらくの間、根元に佇んで見上げていたら、お婆さん二人が声を掛けてきた。この桜の木と一緒に写真を撮りたいからシャッターを押して欲しいというのだ。もちろん写真を写してあげた。一人のお婆さんは、90歳ぐらいだろうか、黒色の着物を羽織っていた。もう一人は、もっと若い。二人ともとても上品な雰囲気を漂わせていた。二人は母と娘で、二人は若い頃から毎年春になると、この桜を見に来ているそうだ。長い間、この桜と一緒に過ごしてきたという。喜しいこと、楽しいかったこと、そして苦しく悲しかったこと・・・いろいろな思い出がこの桜と結びついているという。

 住職が、僕ら三人を見掛けて、お茶に誘ってくれた。お婆さん達とは顔見知りなのだろう。お互いの近況、桜のこと、地元の出来事などを茶を飲みながら話した。帰り際に、住職が言うには、この枝垂れ桜にサクランボが実って試みに蒔いたところ発芽して、今では移植できるまでに育ったので、お婆さんと僕が望むなら、その苗木をくれるという。ただし、実生から育った苗なので、必ずしも母親と同じ花が咲くとは限らないとも言っていた。僕が、何年ぐらいすれば花が見られるかと聞いたら、「約15年ぐらいかも」との答えだった。この時、僕は、内心、お婆さんを前にして悪いことを聞いてしまったと悔やんだ。15年ともなれば、高齢なお婆さんには花を見る機会はないだろう。しかし、お婆さん二人は子供のようにたいへん喜んで、どこに植えようかなどと話していた。今、僕の山小屋の庭に咲いている枝垂れ桜は、この時に貰ったものが大きく育ったものである。光明寺のような大木になり、風格と威厳を持った桜になるためには、あと2、3百年はかかるだろう(笑)。

 それから、お婆さん達と別れようとしたら、これから別のもう一本の枝垂れ桜を見に行くのだが一緒にいかないかと誘われた。そこで、若い方のお婆さんの運転する車に乗せてもらい、下市毛の枝垂れ桜に向かった。これも笠間市の天然記念物になっている有名な巨木である。その途中、前から気になっていた塀に囲まれた広いお屋敷の前を通りかかった。そこで、高齢のお婆さんが自分はこの屋敷で生まれて育ったと言う。その頃の思い出を話し出した。この屋敷の中には何でも有って、6歳になるまで婆やと爺やとに育てられて、門から外に出たことは無かったという。友達は選ばれた子供だけが中に入って一緒に遊んだそうだ。ある日、友だちに誘われてこっそりと前を流れる涸沼川に入り、それが髪が濡れていたので婆やと爺やに判ってしまいきつく叱られた。しかし、水遊びの楽しかったと目を細めて語っていた。驚いたことに、僕が奈良に住んでいたことがあると言ったら、話題は吉野山の桜に移り、桜を詠んだ和歌をいくつも思い出しては謳った。その教養の深さに驚いた。きっと、かつては地元の「お姫様」だったのだろう。もしかしたら、「桜の精」だったのかもしれない。

 今となっては、夢の中の話のように思えるが、毎年、今頃になると庭の枝垂れ桜の花が咲く。そして、毎年、宍戸の光明寺を訪れては、母親桜と同じかどうかを見比べて、やはり、この話は現実だったのだったのだと納得する。
(2022-4-3)

 

光明寺 22−4−1

親父の紅梅

 お正月になるのを待っていたかのように、庭の紅梅が咲き始めた。この木は、僕にとって特別な木だ。この梅が咲く頃になると昔のことを思い出す。
 今から、40年ぐらい昔になるだろうか。まったく風雅などとは無縁な親父が、突然、なぜか梅の盆栽を作り出した。立派に育てて売ろうかと思ったのかもしれない。しかし、全くセンスのない親父のこと、そのほとんどは枯れてしまい、残ったのはわずか2、3鉢だけであった。いつ頃の正月だったか、その一鉢を、妻の実家に贈ったのである。妻の母親は、たいへん植物好きで、この梅を大切に育てて、毎年、花を咲かせては楽しんでいた。でもやがて、その実家も引っ越すことになり、そこで梅の鉢を僕に預け、栽培を託したのある。ちょうど、その頃、僕は木守小屋の庭を作っていたので、庭の前の方に路地植えした。盆栽の面倒を見る自信が無かったからだ。
 それから、何年経ったのだろうか。12年ぐらいかもしれない。今では、背丈は僕の身長の倍近くに育ち、年が開けると真っ先にこの花が咲く。冷たい風の中で、健気に真っ赤な花を次々と咲かせてくれる。
(2022-01-04)

親父の紅梅


 

柚子の老木

柚子の木

群馬の母のところに行ってきた。94歳になる母は、足腰が弱っているものの、相変わらず元気で、よく喋り、よく笑い、よく食べる。まったくボケたところは無い。ちょうど訪れていた叔母を自宅まで送りながら、僕が生まれ育った家があった土地が、現在どうなっているのかを見たくなって、遠回りした。

 この土地は、数年前に人手に渡り、すっかり整地されて、知らない人の瀟洒な家が建っていた。弟と登って遊んだ柿の木や樫の木はもう跡形も無い。毎日のように、野球をして遊んだ庭は草地になっている。もう、僕の記憶にあるものは何も残っていないように思えた。

 あたりを眺めていて、空き地の中に一本だけ、たわわに実をつけたユズの古木を見つけた。午後の日差しを浴びてすくっと立っている。濃緑の葉の間に何百個もの果実が黄金色に輝いている。周辺には、ユズの香りが漂っている。

 「このユズの木は、子供の頃の遊び相手だったあの木だろうか?」と、ふと疑問が浮かんだ。「それにしても小さすぎる。」子供の頃のユズの木は、もっと大きくて堂々としていた。しかし、根元の幹をよく見ると100年以上の古木だ。当時の木も幹の下の方が二股になっていたことを、思い出した。「やはり、この木だ!」数十年ぶりで友人に会ったようで、たまらなく嬉しかった。
 次々と、当時の思い出が蘇った。冬の日向で齧ったユズの実の酸っぱかったこと、母に手に刺さったトゲをユズの棘で抜いてもらったこと。登ろうとしても棘が痛くて実現しなかったこと、などなど・・・。

 この木は、僕の家族が去って、家が取り壊され、他の木々が切り払われても、この土地で、たった一人で生きてきた。そして、いつの日か、僕がここに来ることを期待して、毎年、果実をたくさんの付けて待っていたのだ。僕に、気付いて欲しくて、黄金色に輝いて。

 どうしても、自分の生まれたところを訪れると、感傷的になってしまう。歳かな?それとも晩秋の季節だからなのか?
(2018−12-13)