どこかで近くで昼食をと思い小屋を出たが、つい、いつもの悪弊が出てしまった。天気も晴れ間が見えてきた。燃料も時間もたっぷりある。もう少し先まで行ってみようと、ついに城里を超え、久慈川を渡り、とうとう常陸大宮市の美和まで来てしまった。ここまで来た目的は、「高部」の街並みを訪れてみたかったからだ。以前、栃木県の那須烏山から緒川に沿って走ったとき、街道沿いに古風な趣のある家並みを見たことがある。今日は、それをじっくり見学しようと車を走らせたのだ。県道29号線沿いにあるその古風な宿場町は「高部」である。ここには、鎌倉時代末期から「高部館」と「高部向館」の二つの山城が築かれ、中世の戦国時代には佐竹氏の重要な軍事拠点となったところである。いまでも、町の外れにある小山には当時の遺構が残っている。今回訪れたのは、街道沿いの街並みだけだったが、次回は山城遺構を攻めてみたい。
麓の街道を歩いていると、いたるところに趣のある建物が残っている。崩れかかった蔵や、明治の建物だろうか風情のある洋館もある。蔦が巻きついている大きな建物は旅籠だったのだろうか? 今では、通る車もほとんど無いが、かつては、重要な街道として旅人や行商人で賑わっていたのだろうか。街道の橋からは、河鹿蛙の涼しげな鳴き声が聞こえる。
散歩していて、ここ程、時間の流れを感じさせるところは少ない。
雰囲気のある高部の町並みを堪能した後、もう少し先に有名な「栃原金山跡」があることを知って、ついでに見学することにした。山道のような「大子美和線」を走って、鄙びた集落にある金山跡に行った。入口に看板があるが、坑道らしいところは見つからない。ちょうど歩いてきた老人に聞いたら、坑道はこの1キロ先の山中だという。いろいろ昔の話をしてくれた。今から、二十年ぐらい前までは、砂金探しの観光客がバスで訪れて賑わったそうだ。それで、「おみやげ」の看板をかけた崩れ掛かった建物の謎が解けた。本当に金が見つかるのかと聞いたら、自分の親父などは荒縄で編んだムシロの上に谷川の砂と水を流して、ムシロの目にひっ掛かった砂金を採ったという。この「栃原金山」は金の含有量が非常に多く、本州でただ一つの現役の金山だったが、現在は休止している。少し長くなるが、金山を所有する東洋金属鉱業(株)のホームページから引用してみよう。
< 栃原金山は、約600年前発見され江戸時代に佐竹藩の隠れ金山として採掘されていましたが 佐竹の殿様が秋田に国替えとなり坑口を塞ぎ鉱山技師共々秋田に行ってしまい眠ったままにな っていました。
昭和62年東洋金属鉱業が鉱業権を得て金山として再開しましたが平成9年ごろから金の 相場が低迷しており、金鉱石の採鉱のみを細々と行っていて採掘した鉱石を坑道内に 袋詰めし貯鉱しており、選鉱場も休止しているとの事でしたがその後に坑道内で落盤が発生し現在は 観光金山も廃止状態で栃原金山は廃山状態になっています。
鉱床は白色の石英脈に黒い脈状に入っており江戸時代に採掘した下部を掘っており坑道は 3段になっています。>
地元のおじさんによると、現在でも山から流れる沢を探れば、もしかすると少しぐらいの砂金は見つかるかもと言っていた。金が高騰している現在、挑戦してみたらいかがでしょうか?(笑)
ったままにな っていました。
昭和62年東洋金属鉱業が鉱業権を得て金山として再開しましたが平成9年ごろから金の 相場が低迷しており、金鉱石の採鉱のみを細々と行っていて採掘した鉱石を坑道内に 袋詰めし貯鉱しており、選鉱場も休止しているとの事でしたがその後に坑道内で落盤が発生し現在は 観光金山も廃止状態で栃原金山は廃山状態になっています。
鉱床は白色の石英脈に黒い脈状に入っており江戸時代に採