出島を歩く

 坂を下ると蓮池が現れた。対岸には、古そうな屋敷がひっそりと建っていて、周りを樫やケヤキの大木がとり巻いている。まだ、池の水は冷たそうだが、夏になれば深い緑のハスの葉が水面を覆い、その間から白い花が見えるかもしれない。トンボやツバメも飛び交うだろう。


 かすみがうら市の出島を歩くと、時々このような風景と出会う。谷津と丘陵が複雑に入り組み、谷津は、田圃か蓮田。一角に小さな池もある。丘陵は、畑と雑木林が連なる。その間に大きな農家が点在する。春の暖かな日差しがこれらに注いでいる。
 車を路肩に止めて辺りを散歩する。静かだ!平和だ! 改めて、茨城の田舎の美しさに感動する。

一本桜

 この辺は穏やかな丘陵が波打っていて、訪れる者に遠い昔の懐かしさを感じさせるところだ。その丘の上に、「加茂の一本桜」がある。まだ冷たい北風に耐えながら、青い空に向かって立っていた。

 桜の根元には素朴な社があって石柱が祀られている。桜の種類はヤマザクラだろう。かなりの老木だ。幹回りは4メートルは楽に超えている。一部の大枝が枯れているが、まだ、花を咲かす元気は残っているようだ。ヤマザクラならまだまだ長生きできるはず。桜の生えている場所は、古墳だったのかもしれない。


 もうすぐ春だ。桜が咲く!どんな花を見せてくれるか、そして、夏になったら、どんなに緑の葉を繁らせるか、秋の紅葉はどれほど美しいか、季節ごとに訪れて撮影することにした。

自作のマイクロコンピュータ

 流山の自室には、今から45年ぐらい昔に自作した「マイクロコンピュータ CHUNTA-1号」が飾ってある。若かった頃は、興味と根気があって、これまで細かい仕事ができたという証であり、記念碑である。CPUは、モトローラのMC6802という8bitのマイクロプロセッサ、メモリーは何KBだったか忘れた。会社の帰り、いつも秋葉原を下車して、電気街をうろついてはチップやパーツを少しずつ買い集めた。ケースに穴を開けて各種のスイッチを取り付けたり、データ表示の窓を切り抜いたり、配線はラッピングという試作向けの方式を採用した。回路図を眺めたり、プログラムを勉強したり、専門誌から情報を得たり・・・。「マイコン」という言葉があった頃の話である。

 ・・・ ある日、ついに完成した。パチパチとスッチを押して16進数でアドレスを指定しプログラムやデータを入力した。そして、RUNスイッチをONにしたら、足し算のプログラムが走り、「1+2」の結果が「3」と赤い数字が表示された。その喜びは最高に達した。いまでも、その時の興奮を覚えている。嬉しくて嬉しくて、幼い息子の愛称と同じ名前をコンピュータにも付けた。

小さなスマホで何でもできてしまう現在、昔、僕が自作したこのコンピュータを眺めていると、この50年がとてつもなく早い速度で変化していて、自分の若かった時代が、果てしなく遠いところへ飛んで行ってしまったことがたまらなく寂しい。

 

 

 

女化神社の狐

 流山の自宅から八郷に戻る途中、牛久市の女化神社に寄った。この神社は、龍ケ崎市の飛び地、だから、正確には龍ヶ崎市の女化神社が正しい。3、40年も昔のこと、この神社にお参りして、その後、拝殿の裏側の道路を横断して更にまっすぐ北に向かって歩いて行った記憶がかすかにある。そこには深い森があって、塚のようなところだったように覚えている。鳥居もあったかもしれない。ここが、本当にお狐様を祀っていつところで、そこには実際にキツネが住んでいるとも聞いた。

 今回、神社に寄った訳は、その記憶が夢だったのか現実だったのかを確かめたくなったからだ。

 小道は北に向かって、まっすぐに続いている。遠くの方に赤い鳥居が見える。はやる気持ちで小道を進むと、小さな鳥居が森の外れに立っていた。更に先に続いている。両側から大きな木が茂り、道は薄暗くなる。地面には、木漏れ日が落ちて光の模様となっている。やはり、現実だった!夢ではなかった! やがて、小道は常緑の木々に囲まれた丸い空き地のようなところで終わった。わずかに高くなった円地の周囲には、幾つもの小さなお稲荷さんが祀られていた。ここまで来る人はほとんどいないのだろう。ひっそりとして、不気味なほどの静寂が漂っている。やはり、ここは特別な聖地のようである。

 

 小屋に戻ってから、ネットで調べたら、どうやらここは「女化神社の奥の院」らしい。
女化神社の伝説では、命を助けられたキツネが、美しくて優しい女性になって(化けて)嫁となって恩返ししたが、ある日、うっかり昼寝していて尻尾を出してしまい、子供達にその正体を見破られて一緒に暮らせなくなってしまった。その母親のキツネが逃げ込んだ場所が、今日僕が訪れた場所だという。やはり、特別な場所だったのだ!
 いまでも、この周辺は丘陵が複雑に入り組み、深い林や田んぼが広がっている。昔は、キツネがたくさん住んでいたのだろう。いや、いまでもキツネがいてもおかしくない。もしかすると、この場所は、稲荷信仰から、里の人が、実物のキツネに好物を捧げていた場所かもしれない。人間と狐の接点の場所だったのかもしれない。

ナズナ

窓辺に下げておいたホヤの鉢に、ナズナが生えていた。朝日を浴びた葉は、優しくみずみずしい。
春を見つけたようで嬉しい。

愛馬(車)と共に

 僕の愛馬(黄色のハスラー)が、入院先(修理工場)から帰って来たのが嬉しくて、霞ヶ浦まで走った。快適に走る。どんよりとした寒空だったが、気分は爽快である。出島の歩崎から霞ヶ浦大橋を渡り、玉造、鉾田、小美玉を回って、笠間の愛宕山の駐車場で一休み。陽が射さない木陰には、まだ、先日降った雪が残っている。こんな天気だから、人気(ひとけ)が無い。これ幸いに、眺めのいいベンチに座って、NOMAD Cafeを開いた。目を上げると、いま走って来たルートが一望できる。僕は関東平野の育ちのせいか、月に一度は長々と真横に走る地平線か水平線を眺めないと気分が落ち着かない。霞ヶ浦も愛宕山頂も僕の好みの場所だ。コーヒーが美味い!

帰りに、先日オシドリを見つけられなかった池にまた寄った。今度は成功した。確かにオシドリの夫婦を確認できた。最近、白楽天の「長恨歌」を読んだばかり。この中にも、オシドリ(鴛鴦)は玄宗と楊貴妃の恋の喜びの象徴として登場する。本当に仲が良いかまでは確認できなかったが、、、(笑)。

謎の豆粒

 今日、古民家に行ったら、「ここで節分の豆まきしたの?」と聞かれた。「いいや、なぜ?」と問うたら、座敷のあちこちに豆が落ちているからという。その幾粒かを拾って見せてくれた。確かに、一見、大豆のように見える。まさに節分の豆のようでもある。しかし、更に良く見ると、豆より細長い形をしていて、割ると中まで粉状のものがビッシリ詰まっている。これは、決して大豆ではない。

謎の豆粒


 それでは、これは一体何だろうかと皆であれこれ話した。形はネズミの糞のようであるが、色が白くて固く、ネズミのように黒くない。こんな豆粒を見たのは初めてだ。では、小鳥か、ハクビシンか、ムササビか、もしかすると座敷童の落し物かなどといろいろな意見が出たが、さっぱり結論に達しない。結局、僕が幾粒かを持ち帰って徹底的に調べることにした。でも、まだ、今のところ何もわからない。 どうか、ご存知の方がいたら教えて欲しい。

朝飯まえ

 今朝起きて、小屋の下の道に出たら、枯れたヌルデの木が倒れて、道路を塞いでいる。すでに2、3台の車が、通過できずにUターンした跡が、雪の上に残っていた。これは大変だ!急いで着替えて、電動ノコギリを取り出し、横倒しになったヌルデの木を解体した。すでに、枯れて腐っていたから、作業は簡単だった。これで車も人も通れるようになった。朝飯前に、ちょっとした達成感を味わった。作業が終わって、誰か通ってくれないかなと思ったが、祝日の朝のこと、通る人はいない。

 ひと息ついたので、筑波山を眺めたら、昨夜の雪をうっすらとかぶっている。白い雲が、青空にたなびいている。

飯名神社の初巳祭

 何年かぶりで筑波山麓の臼井にある飯名神社の祭りへ行って来た。飯名神社は、『常陸国風土記』に記載のある古社で、筑波山周辺の神社では最も古いといわれている。社殿の裏側に回ると、「女石」といわれる磐座が鎮座している。その上には、気の毒なほど貧弱な「男石」がチョコンと突き立っている。また、筑波山から流れてくる谷川が社殿の西側を流れていて、岸に銭洗い場が設けられている。江戸時代に、この神社は弁財天信仰と結びついて、この「女石」を弁天様に見立て、地元では「飯名の弁天様」と親しまれている。弁天様といえば、その蛇神信仰に因んで初巳の日に神事を行う。今日が、その初巳の日に当たる。最近の多くの神社が、祭を休日にするのが多い中で、ちゃんと昔からの通り、旧暦の初巳の日に行うところが立派である。

 今回訪れて、少し寂しかった。以前は、雰囲気のある細い参道にずらりと屋台が並び、その前を参拝の人々が列をなして歩いていた。しかし、今日は屋台もまばらで、以前出ていた金物農具やザル屋さん、駄菓子屋、おもちゃ屋などが無くて、どういう訳か、三陸の昆布やワカメを売っている屋台がまばらにあるだけだった。境内のだるま市だけが、以前の通りだった。それに、恒例の餅撒き行事が中止されて袋に入れた餅を手渡したことも、賑わいを欠いた大きな理由の一つである。参拝者も、以前の半分以下のように思える。これが、新型コロナ流行のせいなのか、信仰している高齢者が少なくなっているからか、とても気になる。来年以降、昔のように賑わいが戻るのだろうか?

女石と男石

 そういえば、弁天様は、財産の神、技芸の神でもある。今日、お金を銭洗い場で洗えば金運がアップして、洗ったお金が数倍になって返ってくるという。僕には、この二つとも不足しているもの。
シマッタ!お金を洗うのも才能をお願いするのも忘れてきた。コリャダメダ(笑)!

カモを見に

K先生の情報によると、昨日、八郷の溜池でオシドリが見られるとのことで、さっそく見に行った。残念! いくら探しても見つからない。でも、陽だまりで屯ろするマガモとコガモの群れを観察できた。雄のマガモの首に陽が当たると、青味がかった鮮やかなグリーンに輝く。実に美しい!オシドリが見られなくとも十分満足した。

左の3羽がマガモの雄

大好きな曲がり角

 僕が、涸沼の周辺を巡る道路で、一番好きな曲がり角は広瀬漁港の先で大杉神社の隣だ。湖に突き出た古い建物のガラス窓を見る度に、ここに住みたいと思う。水面に反射した光が、前面の古びた透明ガラス窓から差し込む。部屋の中には真っ赤な花をつけた緑のゼラニュウムの鉢が置いてある。右の窓からは船着場の船と家が眺められる。反対側は大杉神社に連なる黒松の並木だ。このガラス戸の中で、春の日差しを浴びて湖面を眺めながら好きな本でも読んでいたらどんなに幸せだろうと思う。
 この写真を写していたら、建物から三毛の子猫が出て来て僕の足にまとい付く。広い水面、明るい春の日差し、瑞々しいゼラニュウムの葉と花、砂利の湖岸、漁村風景、古びた小さな神社、人懐こい子猫・・・・。

 風があって、諦めていたNOMAD Cafeを、「広瀬の秋月」の石碑の前で開いた。ここは「水戸八景」の一つだ。碑の前の石段が、風除けになって具合が良い。やはり、野外で一人で飲むコーヒーは美味い。

ヤドリギ

 涸沼の北岸にある親沢公園に行った。コロナ禍でキャンプが禁止になっているので、訪れている人は少ない。ここには、エノキの大木が何本もが岸近くに生えている。落葉して幹と枝だけになったエノキの大木は、いつ見ても感動する。一本一本を見て回って、一番奥の木まで来た時、その思いは最高に達した。裸になった木に、ヤドリギの塊がいくつも付いているのだ。こんなに付いているのは滅多に見かけない。赤味がかった緑色のヤドリギの塊は、今にも青空に浮かぼうとしているクス玉のよう。真下に行って見上げたら、半透明のオレンジ色がかった果実がたくさん実っていた。この実は甘いらしく、小鳥たちの大好物だ。この実を食べた小鳥が、他の枝に飛んで行って糞をすると、そこに含まれていたベタベタする種子が樹皮に引っ付いて発芽するのだ。

 北欧の厳しい冬を過ごしている人々にとっては、一年中、緑のままのヤドリギに神聖なものを感じたのだろう。この木は様々な伝説を持っている。ケルト人は「不死・活力・再生」のシンボルとして「聖なる木」とした。これは、後にキリスト教に引き継がれてクリスマスには無くてはならない植物となった。また、ヤドリギは「愛の木」として、クリスマスの季節に、このヤドリギの下にいる若い女性はキスを拒むことが出来ないとされてきた。

 僕がヤドリギを見ていたら、双眼鏡とカメラを持った一人の若い女性がやって来た。ヒレンジャクが実を食べに来ているかも知れないと思って来たという。おそらく、彼女は、この「愛の木」の伝説を知らないだろう。教えて、誤解されても困るからやめにした(笑)。

 帰ろうとする時、上空をミサゴが飛んでいた。

FBとBLOGのバックアップ

このホームページを作ったのを機会に、これまでのFacebookとBlogerの全ての投稿記事をバックアップとしてダウンロードした。ブログを始めたのが2009年4月であり、フェイスブックは2010年12月からである。いずれも10年以上も続けて来たことになる。一時は、日記がわりに書いていたから、この間の僕の生活や行動が良くわかる。試しに昔に遡って見ていたら、まだピーが幼くて愛くるしい頃の写真や、山小屋の木々が小さい頃の写真、友人たちと遊んだり、いろんな所に行った写真などが次々と現れた。もうこの楽しかった時間は二度と戻らないのだと思うと、懐かしさと寂しさがこみ上げてきた。何かあった時のために、バックアップを作っておくのは勧めるが、みだりに昔のことを覗いてはいけない(笑)。